原爆投下直前に父に訪れた幸運、命の不思議さを思う8月6日

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。

 今日8月6日は原爆忌、1945年に広島の原爆投下があった日である。73年前の出来事が、実は僕の人生にも影響している。

■釜山の手前で拾った命

今を生きる我が身の幸運を思う

 僕の父は第二次大戦に旧大日本帝国陸軍の下士官として参加し、当時日本領だった朝鮮半島北部にいた。戦争も末期になったころ、本土に戻るように指令を受け鴨緑江の手前から汽車に乗って釜山に向かった。釜山から船に乗り日本に戻るはずだった。

 ところが釜山の手前で空襲があり、乗っていた汽車はトンネルの中に入ったまま動けず。汽車が動いていると標的になるため、空襲が終わるまでトンネルにとどまるのが当時の方法だったそうだ。かなり長い時間、トンネル内にとどまり、釜山に到着した時は乗るべき船はとっくに出港していた。やむなく翌日の便で帰る手はずを整えたが、その乗るべき船は米軍の潜水艦の攻撃を受けたらしく玄界灘に沈んでしまった。

 「あの時、空襲がなかったら、自分は死んでいた」

 そのことが、父の死生観に少なからず影響を与えたのは間違いない。2009年にガンで死ぬ直前「どうせ、拾った命だから、もう十分だ」と言ったらしい。

■昭和20年6月、広島にいた父に下された命令

 話には続きがある。日本に戻った父は広島に配属となった。ある日、部隊の人間が集められ、上官がこう聞いてきた。「お前らの中で、鹿児島の言葉がわかる者はおるか」。父は鹿児島の隣の宮崎県都城市出身、鹿児島の言葉は子供のころから馴染んでいるから「はい、自分はわかるであります!」と申し出た。するとその上官から「よし、松田、お前は今から鹿児島に行け」と命じられ、父はその日のうちにもう1人の同僚とともに広島から鹿児島に向かった。

 上官がなんで鹿児島弁がわかる人間を必要としたのか。その秘密は日本軍の通信システムにあったと思う。当時の大日本帝国政府は一部の機密事項の連絡に鹿児島弁を使用していたといわれる。つまり普通の日本人が聞いてもよくわからない鹿児島弁で機密をやり取りすれば、日本人にすらわからないのだから、アメリカ人にわかるはずがないというわけだ。そのために通信兵として父が鹿児島の基地に出向くことになったらしい。あくまでも「らしい」であって当時の事情は分からない。

■「今度こそ、俺も最後だ」死を覚悟した鹿児島行き

 汽車(貨物列車だったらしい)に乗った父は(今度こそ、俺も最後だ。もう長くは生きられない)と死を覚悟したという。当時、昭和20年6月に沖縄戦が行われ、激しい戦闘の末、米軍が占領した。沖縄が落ちれば本土決戦、米軍は鹿児島に上陸してくるのは間違いない。その決戦の地にわざわざ自分から出向く羽目になるとは・・・。まさに死地に赴く気分だっただろう。

 しかし、父は鹿児島で8月15日を迎えたのである。そして父が去った直後の広島では、原爆が落とされ部隊は壊滅。広島発鹿児島行きの汽車は死地に赴くどころか、まるで神に導かれ死地から脱するノアの方舟となった。

 これが人生だな。それから73年、松田家の最大の危機から73年だ。こうして21世紀の今を生きている我が身の幸運を思う。

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