3・11から7年、静かに手を合わせよう

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

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青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。
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 東日本大震災から7年か。2011年3月11日午後2時46分、僕は築地の日刊スポーツのビル内にいて激しい揺れを感じた。横揺れがひどかった。午後3時から予定されていた会議は中止。激しい揺れが起きるたびに会社から避難の指示が出て、会社の横にある公園に移動した。

2011年3月11日の中央区築地

 突然の地震に周辺の会社の人がみんな出てきて、公園は人がいっぱいだった。当時持っていたスマートフォンで撮影した写真がこれだ。当時の携帯電話は性能が悪くて、こんな写真しか撮れなかった。

 その日は新聞は発行できたが、多くの社員は会社に泊まったんじゃないかな。僕は午後10時過ぎに会社を出たが、ほとんどの地下鉄が運行をとりやめたため、普段は乗ることのない大江戸線で築地市場駅から新宿駅まで行き、そこから歩き始めた。深夜の甲州街道の歩道をぞろぞろと人が歩く様子は異常の一言。目の前を高校生のカップルが歩いていて「この子たちはどこで何をしていたんだ?」と思いながら歩いていたのを思い出す。

 あれから7年。その日に人生が終わってしまった方がたくさんいらっしゃることを思えば、生きていられるだけでも幸せだと思わないといけない。

 個人的な話をすれば、僕の祖母は関東大震災を経験している。東京女子専門学校(現東京家政大)の学生だったそうで(生年から計算すると満19歳)、始業式の日に大きな揺れを感じて家まで帰ったが、送ってくれた同級生がその後、震災に巻き込まれて死亡したという。存命だった頃、その時の話をすると涙をポロポロ流していた。もし、そこで祖母が亡くなっていたら僕はこの世に存在しなかったわけだ。その意味では「お祖母さん、よくぞ生き残ってくれました」というのは率直に思う。

 そういった自分の来し方に思いをいたし、午後2時46分に亡くなられた方への思いを込めて手を合わせようと思う。

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