24年後もサバイバー 中島瑞果(4)少女の正義

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。

 2002年放送のサバイバー日本版に参加した中島(現姓・丸山)瑞果氏(当時30歳)は、1人の出場メンバーの言動にどうしても我慢ができなかったことが、優勝を逃す要因となった。私情を捨ててゲームに徹していれば、あるいは優勝を手にしていたかもしれない。そうできなかったのは、その人生観に由来するものではないかとも思える。連載の第4回は、中島氏の来し方を紹介し、その点を考察する。

◾️川崎市生まれの転勤一家 

中学卒業時の中島氏(本人提供)

 中島氏は1971年(昭和46)秋、神奈川県川崎市で生まれた。サバイバーにも1度だけ家族として登場した、2歳違いの姉との二人姉妹であった。終戦から26年が過ぎ、日本は高度経済成長を遂げて前年の70年には日本万国博覧会が大阪で開催され、経済的繁栄を謳歌していた時代である。

 父親が大手食品メーカーに勤務していたために転勤が多く、水戸、新潟、宇都宮と転居を続け、もう、転勤はないだろう、との判断から、宇都宮市内に一軒家を購入した。ところが、直後の1984年(昭和59)3月、予想もしない事態が発生する。勤務する会社の社長が誘拐されたのである。

 父親が勤務していたのは(株)江崎グリコで、誘拐されたのは同社の江崎勝久社長、いわゆるグリコ・森永事件である。

 「誘拐された日(3月18日)、父は家族と一緒にいたので、身内以外の証言がなく、事実上アリバイがないわけです。そのため父の周辺の聞き込みはすごかったと聞いています。父からすれば江崎社長とは同世代で見知った仲でしたから、すごくショックだったようです。『かっちゃんが誘拐された』と言っていたのを覚えています。2、3年前に事件を題材にした『罪の声』(塩田武士)という小説を読んですごく面白かったので父に勧めましたが、『いや、いい』と嫌そうな感じで断られました。今でも思い出したくない事件なのでしょう。」(中島氏、以下、断りなき限り同氏)

 この事件をきっかけに同社は九州地区の営業を立て直す必要が生じたとのことで、父親の転勤が決まる。こうして1985年(昭和60)1月、自身が中1の時に一家は福岡市に移った。

◾️二股交際の男子を詰問

 中島氏は「小学生の頃から、いじめは嫌いだった」と言い、曲がったことが嫌いな、まっすぐな性格であったと自身を分析する。幼い頃の夢はテレビドラマで知った保護司。また、友達と見よう見まねで手話の練習をするなど、社会的弱者に寄り添い、支援することを考える少女であった。

 福岡市の長丘中学に転校後も、その性格は変わることはなかった。ある時、友人A子が交際している野球部の男子生徒が、その友人A子と仲の良い友人B子とも交際を始めたと聞いた。A子は男子生徒と喧嘩別れをして、さらにB子との仲にも亀裂が生じる。我慢できなくなった中島氏は、違うクラスで接点もなかったが、その男子生徒のところへ乗り込んだ。

 「『きさーん何しようとやー』と覚えて間もない博多弁で言うと、その男子生徒は『いや、そんなことない…』とモゴモゴ言ってました」と苦笑まじりに語る。男子生徒は野球でも比較的名前を知られる存在ではあったが、中島氏からすれば「野球より、女性関係の方が有名でした」とのこと。

 この男子生徒は、甲子園こそ出場できなかったが、1989年のドラフトで阪神タイガースに指名されて入団する。新庄剛志選手(現・北海道日本ハムファイターズ監督)である。中島氏がサバイバーに出場していた2002年当時は、サンフランシスコ・ジャイアンツで外野手として活躍していた。

 後のメジャーリーガーと思わぬ形で関わりを持ったが、「相手は私のことなど覚えていないでしょうけど、こちらはそのことがあったので、阪神に入団してからもあまり応援していませんでした。今は、もう、応援していますけど(笑)」と、30年以上前を回想する。

◾️姉が『いじめられている』と聞いてとった行動 

高校2年時の身分証明書(本人提供)

 中学卒業後は、姉も通っていた福岡県立柏陵高校に進んだ。1年生の時、その姉がいじめられているという話を聞いた。

 「姉のカバンの中から『死ね』と書いてある紙などが出てきました。『いじめられてるの?』と聞いても姉は、はっきりとは言いません。でも教科書を破られるということがありましたし、私の部活の先輩から『お前のお姉さん、いじめられてるぞ』と聞きました。それで、休み時間に姉のクラスに乗り込みました。廊下から窓をバンと開けて『中島をいじめてるのはどいつだぁ!』と叫びました。たまたま姉はいなかったのですが、同じクラスの女子生徒から『あとで話をしよう』と言われました。後で話をしたら、『話せばわかるじゃん』という人だったので、『ああ、良かった』と思って家に帰りました。」

 ところが、帰宅すると姉は号泣していたという。

 「私が教室から戻った後に何かあったようで、姉は私に一言だけ『死んでくれ』と言いました。パニックに陥った母からは『一緒に死んでくれ』と首を絞められました。」

 困っている人を見ると黙っていられない、正しいと信じたことはやり通す。そうした行為が周囲と軋轢を生むことはある。そうした行動パターンを含めて考えたのか、姉は番組出演時に中島氏を「元ヤンキー」と冗談めかしてではあるが語っている。

 しかし、本人は「ヤンキーではありませんでしたし、見た目すらもヤンキーのようであった時期はありません。どちらかと言えば雑誌『OLIVE』のようなファッションが好きでしたから」と苦笑する。正義感が強く、思い込んだらやり抜く性格をうまく表現できなかったために「元ヤンキー」と評されたのかもしれない。

◾️高校卒業後に芸能活動

 高校卒業を控えた頃からは、演劇の道に進みたいと思うようになる。そこで日本大学芸術学部演劇学科を第一志望としたが、両親の理解を得ることはできなかった。親の勧めに従い、複数の大学の文系学部を受験することとした。ただし、「全部落ちたら、芸能関連の道に進む」ということへの了承は忘れなかった。

 1990年(平成2)3月、受験した大学に合格できなかったために、劇団ひまわり俳優養成所に入所する。92年(平成4)には『ゆまにて』(現ユマニテ)預かりとなり、芸能活動を続けた。当時は樋口可南子やデビューしたばかりの椎名桔平がよく出入りしていたという。CMや雑誌、舞台、ミュージカル、ナレーション、声優など幅広くこなすようになる。ものまねにも挑戦し、レパートリーは安室奈美恵、プリンセスプリンセスなどであったという。

 こうして20代は芸能活動をこなしつつ過ごしたが、芸能活動だけでは生活は厳しくアルバイトを続けながらの生活となった。2001年(平成13)、たまたま街で見かけたコーヒーの焙煎士の募集を見て、「やってみたい」と思い、店に飛び込みで応募し採用された。アルバイトとして働きながら、レジでたまたま目にした新聞のテレビ番組欄の「日本版サバイバー募集開始」から、サバイバーへの出場が決まる。

◾️神のみぞ知る

 こうして中島氏の来し方を振り返ると、サバイバーでの吉野大輔氏(当時30歳=僧侶)との軋轢も、生ずべくして生じたのかもしれない。

 当時、交際していた相手が僧侶で、その規範を身近で感じていた身として、吉野氏の言動は自らの臨界を超える怒り、憤りになったことは容易に想像がつく(参照・24年後もサバイバー 中島瑞果(3)それぞれの同盟)。

舞台でランニング・マイケル氏と共演(本人提供)

 優勝するという大きな目標の前に、普段の自分を殺して戦略的に吉野氏と向き合うことも可能であったかもしれず、そうしていれば、3位ではなく優勝を手にできたかもしれない。実際、そうしなかったことは、人生における不器用さの発露と言えるのかもしれないし、肯定的に見れば、自身の人生の中で譲れない部分を守った結果と言えなくもない。

 今でも、ふとしたきっかけで最後の追放免除ゲームに勝てなかったことを思い出し、悔やむことがあるという。しかし、自分の中で譲れない部分を封印して優勝していたとしたら、即ち、本来の自分ではない中島瑞果で優勝していたとしたら、その後の人生において「良かった」と思うのか、それとも「本当にそれで良かったのか?」と感じているのか、神のみぞ知ることであろう。

 そうした思いを込めて、「ご自身のこれまでの人生の中で、サバイバーとはどのような地位を占めるものですか」と聞いてみた。

 10秒、20秒…沈黙が続いた後の答は、至ってシンプルであった。

 「かけがえのない青春ではあったと思います。青春末期のね。」

24年後もサバイバー 中島瑞果(5)に続く

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