相島一之さんを応援する理由『べらぼう』出演中

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。

 「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)に出演中の相島一之さん(63)は、独特の存在感を発揮して多くの映画やドラマなどで活躍している。その相島さんと筆者(松田隆)は、人生の中で僅かだが関わりがあった。実は高校時代に剣道部で先輩・後輩の関係であり、個人的に応援を続けていた。今回はその点を紹介したい。

◾️大河ドラマ・連続テレビ小説に多数出演

1977年春 熊谷高校剣道部

 「べらぼう」の松平康福役で出演中の相島一之さんは、大河ドラマは2004年の新選組!から数えて6度目の出演となる。NHKの連続テレビ小説も「春よ、来い」から始まって4作品に出演(Wikipedia・相島一之から)。2月から始まった東京サンシャインボーイズの復活公演「蒙古が襲来」でも熱のこもった演技を披露している(PARCO STAGE・「蒙古が襲来」舞台映像ダイジェスト)。

 その相島さんは筆者にとって埼玉県立熊谷高校の剣道部の1年後輩にあたる。2年間、苦楽を共にしたが、特別親しいわけではなく、一般的な先輩・後輩の関係にすぎなかった。

 剣道の実力に関しては、相島さんの学年では後に立命館大学の剣道部で活躍する荒木君が断然強く、相島さんはそれほど強かった印象はない。荒木君がスピード感のある動きで、「ススっ」と下から入ってきてスナップの効いた打突で相手を仕留めるタイプの剣道であったのに対して、相島さんは動きも打突もふんわりとした感じで、面を打つ時もフワッと浮き上がるような、有り体に申せばスピード感や打突の強さに欠ける印象であった。

 ただ、こちらが打っても打っても当たらない、やりにくい剣道で、勝負強さはあったように思う。後から知ったが、3年次にインターハイ予選の個人戦にも出場したとのことで、荒木君に次ぐ世代2番手の評価であったようである。

 相島さんと一緒に写っている写真を探したところ、1977(昭和52)の春に撮影したものが見つかった。剣道部では例年、新入部員が入ったところで熊谷市内の荒川公園に出向いてソフトボールをしていた。冒頭の写真はその時のもので、相島さんは向かって右の後方に立ち、顔の上半分が見えている。筆者は向かって左後方で、右手で髪をかきあげている(参照・1977年春 熊谷高校剣道部)。

 筆者が高校卒業後、特に接点はなかったが、大学生の時に一度だけ都内から熊谷へ帰る高崎線(JR東日本、当時は日本国有鉄道=国鉄)の電車でばったり会った。筆者は成蹊大学で剣道を続けていたが、相島さんは進学した立教大学では剣道を離れていた。もう40年以上前の話なので正確な再現ではないと思うが、概ね、こんなやりとりであった。

 相島:松田さん、大学でも剣道やってるんですね、びっくりです。

 松田:俺は高校時代、一生懸命にやってなかったから、それは驚くだろうな(笑)

 相島:いや、そんなことはないですけど、意外です。

 松田:相島はやらないの? 立教なら剣道部に入れたんじゃないか?

 相島:僕は剣道は高校でやり尽くしましたから。

 松田:そうか…。法学部だっけ? 法律の勉強頑張ってる感じか…

 相島:いえ、僕はもう学校の勉強はいいんです。…役者になろうと思ってます。

 松田:役者?!

 相島:はい。

 松田:俳優を目指してるんだ。

 相島:はい。だから大学はもういいかなという感じで。

 松田:そうか…。でも、将来は就職するかもしれないし、とりあえず卒業だけはした方がいいんじゃないか。

 相島:そうですね。

◾️古畑任三郎に出演

 その後、彼は大学を卒業したようである(Wikipediaから)。別に筆者が言ったからどうこうという話ではないと思うが、俳優でも「立教大学卒」と明記できるのは彼のキャリアにとって決して小さくないと思われる。

 それから数年経ち、1990年代前半、筆者が新宿かどこかのスナックで雑誌の編集者と酒を飲んでいた時であったと思うが、丸めた厚紙を抱えたカジュアルな服装の若い女性が1人で入ってきた。その女性は店主に「ポスターを貼らせてください」とお願いして壁に貼り始めた。舞台の告知のポスターで、そこには「相島一之」の名前が入っていた。筆者は驚いて、その女性に「相島一之って、高校の後輩だよ。剣道部で1年下だったんだ」と言った。するとその女性は「そうだったんですか。ぜひ観にきてください」とにっこり笑って店を後にした。

 当時、筆者は日刊スポーツ新聞社で中央競馬を担当していた。サラリーマンとして仕事を覚えている時期であったが、数年前に「役者になりたい」と言っていた相島さんが本当にその道に進みポスターに名前が掲載されるほど活躍しているのを知って、驚き、そして喜びが込み上げてきた。

相島一之さん(同氏インスタグラムから)

 その2、3年後、1996年(平成8)1月17日、自宅で「古畑任三郎」(フジテレビ系)を観ていると、犯人役の沢口靖子さんに殺される役が相島さんであることに気がついた。一緒に見ていた家族に「おお、相島君だよ! すごいよ、沢口靖子に殺されたよ!」と叫んでいた(古畑任三郎事件ファイル・EPISODE / 15 笑わない女)。

 人気番組で大女優に殺害される役を演じた相島さん。その10年以上前に高崎線の車中で「役者になろうと思ってます」と、役者になる原点の頃の話を自分が聞いていたという事実に何とも説明のしようがない、不思議な感覚、感動にとらわれていた。何かわからないが(自分も頑張らなくては)という思いを強くしたのを今でも覚えている。

◾️実は小学校も同窓

 後から知ったが、相島さんとは熊谷市立東小学校でも同窓であった。筆者が入学した当時、1学年7クラスのマンモス校であり、同級生でも知らない生徒が多数いる中、1学年下の生徒は身近な存在の生徒以外には知る由もない。

熊谷市立東小学校(撮影・松田隆)

 筆者は小4の2学期から市内の別の小学校に転校したため、2年と1学期だけ同じ小学校に通っていたことになる。相島さんは熊谷市立富士見中学校出身であり、そこは筆者の姉が通っていた。

 東小学校在籍時、筆者は埼玉県立熊谷女子高校の近く、住所で言えば熊谷市筑波2丁目に住んでおり(参照・昭和深イイ話 背筋伸ばした駄菓子屋のジイさん)、小中学校がともに同じ地域であったことから、おそらく相島さんもその近所に住んでいたのであろう。その後、同じ高校に進学し、さらに剣道部で一緒に活動をするようになったというわけである。

 相島さんは熊谷市親善大使として、多くの場面で故郷の広報活動を続けている(熊谷市・熊谷市親善大使について)。地元を大事にする相島さんであれば、高崎線の車中で『役者になろうと思ってます』と筆者に言ったことも覚えてくれているかもしれない。

 もちろん、そうであろうとなかろうと、筆者が変わらず、その活躍を願うことに変わりはない。

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