さようなら野村旗守氏 忘れないゴールデン街の日々
松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵
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ジャーナリストの野村旗守氏が3日、死去した。58歳、死因は食道がんと報道されている。一時期とはいえ、親交のあった者としては、あまりにも早すぎる別れは辛いものがある。数多くの著書があり、保守派を代表する言論人であった野村氏の死を悼む。
■出会いは2003年 ライターの懇親会
野村氏は朝鮮総連や極左暴力集団に関する著作が多く、政治的には保守的なジャーナリストの1人として知られている。著書に「北朝鮮送金疑惑 解明・日朝秘密資金ルート」(東洋経済新報社)、「Z(革マル派)の研究」(月曜評論社)、「北朝鮮利権の真相」(宝島社)などがある。
野村氏と最初に会ったのは18年前の2004年初頭。当時、僕は日刊スポーツ新聞社に勤務する傍ら、ライターとして雑誌を中心に執筆をしており、競馬関連なら本名で、それ以外のジャンルではペンネームで書いていた。
2003年にあるムックにメインライター的な存在で執筆したが、野村氏もその本に出稿していた。ジャンルはメディア関連で、当サイトで書いているような内容と思っていただきたい。その本の売れ行きが思ったより良かったのか、担当の編集者が執筆に関わったライターを10人程度集めて懇親会を行なった。その時に紹介されたのが野村氏である。「旗守」という特徴的な名前で僕の意識の中にもあった。
彼は僕が朝日新聞社系の日刊スポーツに勤務していることに驚いたようで、「日刊スポーツにも松田さんのような記者がいるんですね」としきりに感心した様子であった。さらに、ムックに出した僕の記事について「よく、ああいう視点で書けましたね。普通の人は松田さんのような発想はできません」と褒めてくれた。サラリーマン記者がプロのライターから褒められるというのもあまりないことであろう。今、こうして文章を書いて公開しているのは、彼の言葉が背中を押してくれた影響もあるのは間違いない。
その後、野村氏が音頭を取って二次会になだれ込んだ。「松田さんに是非とも紹介したい店があるんですよ」と野村氏が連れて行ってくれたのが新宿のゴールデン街にある「ひしょう」というスナックだった。店内に入って席に着くと「松田さん、ここはね、左翼が集まる店なんですよ」といたずらっぽく笑う野村氏に、僕は「え!?」と一瞬、不快な顔をしたと思う。気付けば店内には全共闘世代の学生運動の写真がいくつも飾ってあるではないか。
ご存知の方は多いと思うが、「ひしょう」はかつて日本社会党の衆議院議員だった長谷百合子氏(故人)が経営するバーである。学生運動を経験した人たちが集う場所でもあったようだ。その時に長谷百合子氏も紹介されたと思う。その後、僕は長谷百合子氏に日刊スポーツのサイトで執筆してもらうために何度か店に通うことになった(参考・昭和は遠く…中山仁さん死去 長谷百合子さん、原良馬さんも2019年のさようなら)。
世間からはゴリゴリの保守派と思われている野村氏が、社会党の元代議士が経営する学生運動崩れが集まる店の常連という事実が心に残り「変わった人だな」という印象を持ち、それ以後、野村氏とは定期的に会って、新宿で飲む仲になった。
■野村旗守氏「松田は右翼」(笑)
野村氏はその著作物や活動から世間からはコワモテの人と思われるかもしれない。実際、僕も最初はそういう印象を持っていた。しかし、僕に見せる表情はごく普通の「おじさん」であった。
何度か飲みに行くようになると、「今日は女の子のいる店に行きましょう」と誘われ、二次会で女性が話し相手をしてくれるタイプの店に行くこともあった。そんな時の野村氏は、若い女性を相手に楽しそうに酒を飲むおじさんそのものであった。
そうした店でのことだったか定かではないが、ある時、こんな会話をしたのを覚えている。
野村:松田さんは右翼だからな。
松田:右翼に右翼呼ばわりされるとはびっくりだよ。
野村:俺は右翼じゃないって。
松田:多分、日本中の人が野村さんを右翼と思ってるよ。そもそも旗守(はたる)って名前は、日の丸を守るという意味でしょ? 名前からしてそれっぽいよね。
野村:いや、これ本名なんだ。
松田:え、そうなの?
野村:そうそう。よく間違われるけど、親が付けてくれた名前なんだ。
こんな他愛のない話で盛り上がったのも、いい思い出である。ちなみに彼は立教大学出身で、僕の記憶に間違いがなければ立教高校(現・立教新座高校)から内部推薦で上がったはず。僕自身、高校時代に剣道部で立教高校に出稽古に行ったことがあり、「あそこはキャンパスが綺麗で、田舎の公立高校の僕たちには眩しいような環境だった」と埼玉の高校出身者同士の話をしたのも覚えている。
■2008年表参道での取材
野村氏はそんな僕に苦悩する表情も見せたことがあった。2005年に出版されたムックに寄せた記事についてJR東日本労組から損害賠償として1190万円の支払いを求める訴えを起こされた時のことである。
「あいつら、会社ではなく、ライター個人を訴えてきたんだ。個人が訴訟をすることがいかに大変か。完全に嫌がらせのようなもんだ」と怒りを露わに語っていた。独立してライターになることは自由を手に入れる半面、そうしたリスクを抱え込むことであるということを僕に教えてくれたのも野村氏である。
そんな野村氏と最後に会ったのは2008年であった。2007年に司法試験の問題の漏洩が問題になり、彼はそれを取材していたようである。その時、僕は青山学院大学のロースクールに在籍中で、彼からメールで取材の依頼を受けた。
司法試験の漏洩について、現役のロースクール生はどう感じるかという話を聞きたかったようで、学校の帰りに表参道の喫茶店で取材を受けた。その時、彼の弟子のような存在なのか、若い男性が僕に話を聞くことになり、野村氏は時折、その男性に横からアドバイスを送っていた。
質問事項を聞く限り「不正行為が罷り通っている現状を知り、司法試験への不信感が生まれた。真面目にやっているのが馬鹿馬鹿しくなる」という趣旨のコメントが欲しかったように思えた。
もちろん、その意を汲んで話すこともできたが、友人であるからこそ、本音を話すべきだと思ったし、また、学校で仲間たちがどう感じているかを話すべきだと思い、「1科目ぐらい問題を教えてもらって合格できるような甘い試験ではない。他の多くの先生方は真面目に考査委員をしているだろうし、これがあったから試験制度そのものへの不信感が募るということではないし、僕の周りもそんな感じの人が多い」とありのままに話した。
彼には満足のいく回答ではなかったのであろう。結局、それは記事にならなかったようで、その後、連絡は途絶えた。勝手な思い込みかもしれないが、その時の野村氏の表情からは(もう、松田とは違う世界にいるのかな)といった感情が含まれていたように感じられた。
■強大な権力に立ち向かう姿勢
あれから14年、こういう形で彼の消息を聞くのは残念と言うしかない。
出会ってから19年、人生の中で彼と接点を持てたのは僕に取って幸運であったと思う。強大な権力を持つ団体、個人にも恐れずに立ち向かう姿勢を尊敬していたし、これからもっともっと活躍して欲しかった。そして、もう一度、ゴールデン街で飲みたかった。僕は友情は終わってなかったと思っていたし、声をかければ、彼も僕と同じスタンスで会ってくれたと思う。
野村旗守さん、色々とお世話になりました。ありがとうございます。そして、長い間、お疲れ様でした。今はゆっくりとお休みください。
合掌
》》ジャーナリスト松田様
同じジャーナリストとして取材の意図が推測できることは悲しい性ですね。その後の野村氏の想いについてはご本人にしか分からないこと。きっと松田さんの性格も、良い意味で理解されていたと思います。
この記事を見ながら「僕も、もう一度ゴールデン街で飲みたかったよ」と微笑んでいらっしゃるはずです。
ご冥福をお祈りします。
温かいお言葉、ありがとうございます。
そう言っていただけると、気も楽になります。実は(たまには野村さんに連絡してみようかな)と、ここ1年ぐらいで何度か思ったのですが、忙しくて機会が作れずという状態でした。「思い立ったが吉日」を実感しております。