広島平和宣言 英語版から消えた“sign”の謎

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。

 被爆から81年となる2026年8月6日、広島市の松井一實市長が平和宣言を読み上げた。広島市は毎年、日本語版と英語版を公表しているが、両者は必ずしも同じ意味ではない。当サイトは2023年と2025年、英語版で意味や要求の強さが変えられていることを指摘した。今年の日英の違いは、過去2回ほど大きくない。しかし、2025年と2026年の平和宣言を比較すると、日本政府に対する要求の内容が大きく変わっていることが分かる。

◾️日本語版と英語版の違い

原爆ドームのイメージ(AIで生成)

 毎年、原爆が投下された8月6日に広島平和宣言が発表されるが、日本語と英語ではその意味合いが変わることが少なくない。単純な誤訳とも思えず、そこに政治的意図が込められているようにも見える。

 特に顕著だったのが2023年。松井市長は「世界中の指導者は、核抑止論は破綻しているということを直視し、」と読み上げたが、これが同市ホームページで公開された英語版では「世界中の指導者は、核抑止論は愚案であることを直視し、(However, leaders around the world must confront the reality that nuclear threats now being voiced by certain policymakers reveal the folly of nuclear deterrence theory. )」となっていたのである。

 この点を当サイトは「実際の宣言では『核抑止論は破綻』と客観的な事実の指摘となる。ところが、英文では『核抑止論は愚案』という市長の主観的な評価にとどまる。」と指摘した。

 この点を広島市役所に直接、問い合わせると「英語に関しては最終的に市長がこれでいい、と言ってます。それを(日英で意味が)違うと言われるのであれば、それは私たちはそうは思っていません。」とのことであった(同)。つまり、英語版は市長自身の最終確認を経て公表されており、日英の違いを単なる翻訳担当者だけの問題として切り離すことはできない(以上、参照・平和宣言「核抑止論の破綻」英語では意味変更)。

◾️1年で変わった平和宣言

 2026年の平和宣言を見ると、日英の乖離はそれほどでもないが、2025年の宣言から大きく意味を変えている。そのあたりが極めて政治的な匂いがする。特にそれを感じさせるのが、核兵器禁止条約への参加に言及した部分である。まず、最初に日本語版で比較する。

【2025年】

「核兵器禁止条約の締約国となることは、ノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会を含む被爆者の願いに応え、『ヒロシマの心』を体現することにほかなりません。」

【2026年】

「そのためにも、まずは今年11月から開催される核兵器禁止条約の再検討会議にオブザーバー参加し、そして、一刻も早く締約国となっていただきたい。」

 2025年は、「締約国になることには、このような意味がある」という松井市長の考えを説明したものである。締約国になることは被爆者の願いに応え、「ヒロシマの心」を体現することになると述べているが、日本政府に対して「締約国になれ」と直接要求する文型にはなっていない(参照・広島平和宣言またも日英で意味改変”欺く行為”)。

 一方、2026年は「オブザーバー参加し」「締約国となっていただきたい」と、日本政府に行動を求める文章になった。

 ただし、具体的な当面の要求として最初に置かれたのは、核兵器禁止条約への署名ではなく、再検討会議へのオブザーバー参加である。締約国となることも求めてはいるが、そのために必要な署名・批准または加入という法的手続には触れていない。

◾️2026年に消えた“sign”

 英語版の違いは、さらに明確である。

【2025年】

“We call on Japan, for example, to sign and ratify the Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons (TPNW). Doing so would manifest the spirit of Hiroshima and begin to answer the supplications of our hibakusha, represented by Nihon Hidankyo, last year’s Nobel Peace Prize recipient.”

【和訳】 「例えば、日本に対して核兵器禁止条約への署名と批准を求めます。それは『ヒロシマの心』を体現し、前年のノーベル平和賞受賞者である日本被団協に代表される被爆者の願いに応える第一歩となります。」

【2026年】

“To that end, we urge Japan to begin by participating as an observer in this November’s Review Conference of the Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons, then ratify the treaty without delay.”(広島市・PEACE DECLARATION August 6, 2026

【和訳】 「そのため、日本に対し、まず今年11月の核兵器禁止条約再検討会議にオブザーバーとして参加し、その後、遅滞なく同条約を批准するよう求めます。」

 2025年の英語版は、日本政府に対して“sign and ratify”、すなわち「署名し、批准せよ」と直接要求していた。日本語版では締約国となることの意味を説明するにとどめられたが、海外向けの英語版では、条約参加に向けた具体的な手続を政府に求めていたのである(参照・広島平和宣言またも日英で意味改変”欺く行為”)。

 ところが2026年の英語版からは、前年にあった“sign”が消えた。代わって最初に求められたのが、再検討会議へのオブザーバー参加である。

 英文だけを比較すれば、要求は次のように変わったことになる。

 2025年⇨核兵器禁止条約に署名し、批准せよ。

 2026年⇨まずオブザーバー参加し、その後、遅滞なく批准せよ。

 条約参加に向けた最初の具体的な行為である「署名」を直接求める文章から、条約に参加しなくても可能な「オブザーバー参加」を当面の要求とする文章へ変わったのである。

◾️「遅滞なく」は署名を急がせていない

 2026年英語版にある“without delay”は、「遅滞なく」「先延ばしせず」という意味である。一見すると、日本政府に迅速な条約参加を迫る強い表現にも見える。

 しかし、“without delay”が修飾しているのは“ratify”、すなわち批准であって、英文から消えた署名ではない。

 日本は核兵器禁止条約に署名していない。同条約第14条は、署名国による批准と、未署名国による加入を別の手続として定めている。現在の日本は、そのまま批准することはできず、批准するなら、その前に署名しなければならない。国連の締約状況一覧にも、日本は署名国、締約国のいずれにも掲載されていない。

 したがって、日本が署名・批准という経路を選ぶことを前提に、今年の英文を法的に成り立つよう補えば、「日本が署名したなら、その後の批准は遅滞なく行ってほしい」という意味になる。ところが、署名をいつ行うべきかについては何も書かれていない。直ちに署名せよとも、オブザーバー参加後に署名せよとも要求していない。

 署名するかどうか、署名するとすればいつなのかは日本政府の判断に委ね、いったん署名した場合には批准を遅らせないよう求める構造である。

 高市政権にとっては、2025年の“sign and ratify”に比べ、はるかに受け入れやすい表現と言える。政府は、平和宣言に応えてオブザーバー参加する一方、「核兵器禁止条約への署名を直ちに求められたわけではない」と説明できるからである。

◾️オブザーバー参加しても核政策は変わらない

 オブザーバー参加は、核兵器禁止条約への署名・批准や加入とは法的に別個の行為である。会議に参加して発言しても、それによって条約上の義務を負うわけではなく、締約国にもならない。

 実際、ドイツは核兵器禁止条約の締約国会議にオブザーバーとして参加しているが、NATOの核抑止政策と核シェアリングへの参加を維持している。ドイツ政府自身も、オブザーバー参加によって同条約に関する法的立場は変わらないと説明している(独外務省・Second Meeting of States Parties to the Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons)。

 高市政権も同様に、米国の核抑止力に依存する安全保障政策を維持したまま、唯一の戦争被爆国として再検討会議に出席することは可能である。仮に日本政府が11月30日からニューヨークで行われる会議へのオブザーバー参加を決めた場合、「被爆地・広島市長から強い要請があった」と説明することもできる。署名や批准に進むわけではないため、政府の核政策を変更する必要はない。

 2025年の平和宣言が発表された際の首相は石破茂氏であった。海外向けの英語版では、その石破政権に対して核兵器禁止条約への署名と批准を正面から求めていた。2026年には、石破政権より保守色の強い高市政権に代わった。日本政府の核抑止政策や高市首相の安全保障に関する姿勢を考えれば、核兵器禁止条約への署名は極めて考えにくい。

 そうした中で、2026年英語版は、政府に現在求める具体的な行動をオブザーバー参加とし、署名を直接求める表現を削除した。核兵器廃絶を求める姿勢は“without delay”という強い表現で残しながら、署名する時期については高市政権の判断に委ねている。

 単なる誤訳の可能性はある。しかし、2025年には“sign and ratify”と正確に書かれ、広島市は2026年4月9日、高市首相に対して核兵器禁止条約への「署名・批准」を要請した(広島市・核兵器不拡散条約(NPT)体制の堅持及び核兵器廃絶に向けた取組に関する内閣総理大臣への要請)。条約への署名に関する知識がないため、偶然“sign”を落としたとは考えにくい。また、前述のように、広島市は当サイトの取材に「英語に関しては最終的に市長がこれでいい、と言ってます」と答えている。少なくとも2023年版は市長の最終確認を経ており、同様の作成過程が続いているのであれば、“sign”の削除を翻訳担当者だけの問題として片づけることはできない。

 今回の平和宣言が政府との事前調整を経て作られたと断定できる証拠はない。ただ、到底実現しそうにない署名要求を繰り返すより、まず政府が応じることのできるオブザーバー参加を実現させる。そのための政治的な着地点を示したと考えることはできる。

◾️オブザーバー参加のための布石?

高市早苗氏公式サイトから

 石破政権には英語版で署名・批准を正面から求めながら、高市政権には署名要求を外した。その結果、日本政府の核抑止政策と正面から衝突する表現は避けられた。この変化には、松井市長の政治家としての現実的な判断が表れた可能性がある。

 昨年は「署名し、批准せよ」。今年は「まずオブザーバー参加せよ。将来署名したなら、批准は遅らせるな」。

 英語版から署名要求を外したことで、高市首相に条約参加を直ちに迫る構図は消えた。その一方で、政府がオブザーバー参加を決断するための理由は用意された。

 11月、日本政府は再検討会議にオブザーバー参加するのか。実現した場合、2026年の平和宣言は、高市政権がその決断をするための布石だったと見ていいのかもしれない。

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