朝日の二重基準の動かぬ証拠 トリエンナーレ社説

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。

 あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」が抗議や脅迫の電話、河村たかし名古屋市長による抗議等でわずか3日で中止になった事件で、朝日新聞は8月6日の社説で「あいち企画展 中止招いた社会の病理」というタイトルで、中止による表現の自由の侵害について警鐘を鳴らした。ところが、4年前の2015年のフランスの週刊誌に対するイスラム教徒のテロ事件後の社説では、まるで異なる考えを示していた。「二重基準」と言っていい朝日新聞の2つの社説を検証してみよう。

■世界を震撼させたシャルリー・エブド襲撃事件

そりゃないよ、朝日新聞さん(笑)

 問題の社説は2015年1月19日に掲載されたもの(表現と冒涜ー境界を超える想像力を)で、いわゆる「シャルリー・エブド襲撃事件」に関するものである。これはパリに本社を置く週刊風刺新聞の「シャルリー・エブド」が預言者ムハンマド(マホメット)の風刺画を掲載したことに怒ったイスラム過激派のテロリストが本社に乱入し、12人を殺害した事件。

 風刺画を掲載したことの代償が12人の生命であり、許し難いテロ行為である。ところが朝日新聞は、この事件に関する社説でシャルリー・エブド社を責めている。表現の自由は「どんな場合でも無制限というわけではない」とし、特定の集団や民族の存在意義を否定、憎しみをあおる言動については「自由の名で守られるべきものではない」と断言しているのである。

 ちなみに河村たかし名古屋市長も「表現の自由は憲法21条に書いてありますが、絶対的に何をやってもええという自由ではありません」と記者会見で述べたのは記憶に新しい。その河村市長の批判の急先鋒が朝日新聞であるのはご存知の通りである。

 ムスリムにとって預言者ムハンマドは絶対の存在であり、そのような人物を風刺することは民族の存在意義を否定し、憎しみをあおる言動であると言うのであろう。そのため、「自由に伴うべき思慮の領域を広く深くもたねばならない」と、要は(相手のことを考えて表現すべき)と諌めているのである。さらに「いつも謙虚に耳を澄ます姿勢が欠かせない」とも。

 12人が射殺された事件で、殺された方に「もう少しムスリムのことを考えて表現活動をしろよ」と言っているのである。確かに一理あるが、これは間違えれば表現の自由の危機に繋がる。「ムスリムを刺激する表現は生命の危機につながるから、控えよう」という萎縮につながるのではないか。

■「表現の不自由展・その後」で一変した社説

 さて「表現の不自由展・その後」で、朝日新聞はどう論じたか。詳細は表を見てほしい。赤文字で書いた部分が今回の社説だが、一部に脅迫を含む抗議電話や名古屋市長による抗議ということで中止になったが、表現する津田大介氏側への擁護ぶりが際立っている。

 表現の自由の限界について、シャルリー・エブドでは「どんな場合でも無制限というわけではない」と明言していたのに、その点には言及がない。ヘイトのような言動は「自由の名で守られるべきものではない」としていたのに、今回は「多様性を保障することに最大限の配慮…が求められる」と、180度異なる見解となっている。

 昭和天皇の写真を燃やし、最後に踏みにじる動画は「多様性を保障…に最大限の配慮」、ムハンマドの風刺画は「自由の名で守られるべきものではない」。昭和天皇の写真を燃やし、踏みにじる動画はムハンマドの風刺画より、遥かに攻撃的で民族の存在意義を否定し、憎しみをあおる言動であるにも関わらず、この異なる見解は社会通念から著しく外れていると言っても言い過ぎではないだろう。

 表現者が注意すべきことについて、シャルリー・エブドでは自由に伴う責任の重さを強調し、かつ、謙虚な姿勢を求めていたのに、表現の不自由展・その後に関しては何の言及もない。

■シャルリー・エブド襲撃事件の社説を当てはめると…

もう沈んで朝日新聞

 シャルリー・エブド襲撃事件での朝日新聞の社説を、津田大介氏が引き起こした事件に当てはめてみると、非常に納得がいく主張になる。

 津田大介氏が展示した昭和天皇の写真を燃やし、最後に踏みにじる動画について「表現の自由はどんな場合でも無制限というわけではない」のであって、特定の民族(日本人)の存在意義を否定し、憎しみを煽る言動だから「自由の名で守られるべきものではない」。それに対する抗議があったとしても「批評や風刺にも最大限の自由が保障されねばならない」。

 その上で津田大介氏ら表現する立場の人間は「自由に伴うべき思慮の領域を、広く深くもたねばならず、いつも謙虚に耳を澄ます姿勢が欠かせない」ということである。

 これなら納得のいく読者が多いのではないだろうか。それなのに、シャルリー・エブド襲撃事件の時とは全く違う見解を打ち出したのはなぜか。彼らの頭の中を想像するのは難しい。

 社説を書いた人間が政治的意図を持ち、特定の主義・思想を擁護する意図があったと考えるのが普通の思考ではないか。そうでなければ、よほどのバカか、そのどちらかであろう。

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