「植松君一人殺したとて何も変わらない」→変わらなくていい 粛々と死刑執行を

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。

 相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害された事件で植松聖被告が3月16日に横浜地裁で死刑判決を受けたことに対し、社会全体の問題であるとする声が出ている。同被告と接見したNPO法人「抱樸」の奥田知志理事長は「Choose Life Project」の取材に対し「植松君ひとり殺したとて何も変わらない」などと話し、判決は社会に対しての問いかけであるとする。凶悪犯の責任を社会に押し付けようとする意見には首を捻らざるを得ない。

■死刑反対論者があれこれ理由つけただけ?

Choose Life Projectが公開した動画の画面から

 「Choose Life Project」はテレビの報道番組や映画、ドキュメンタリーを制作している有志で始めた映像プロジェクトだそうで、3月17日にツイッター上で奥田理事長のインタビューをアップした。

 奥田理事長の発言で公開された分は最後に全文を記すが、概ね、以下のように述べている。

(1)死刑判決は「お前はもう生きてる意味がないから死刑だ」というもので、植松被告自身が言った言葉と同じ。

(2)我々に植松被告と同じ感覚があるなら、判決は社会をも裁いている。

(3)植松被告は意味のある命とない命を分け、自分は後者に属していると考えたから殺される不安を持ち、それを解決するために大量に殺害し自分は役に立つことを立証しようとした。

(4)「意味のない命が生きていていいのか」という問いに答えがない。

(5)仮に全く意味のない人がいたとしても、命は大事だと言わないといけない。「植松君ひとり殺したとて、何にも変わらない」。

 話の中で奥田理事長は上記(5)の後ろに「私たちは絶対的に揺るがない命こそ大事だ。『生きてることに意味がある』と言う言い切りから始まるというベース」と言っているから、植松被告を死刑にすること反対なのであろう。

 結局、死刑反対論者があれこれ理由をつけ、死刑にすべきでないと主張しているに過ぎない。

■論理性に欠ける奥田理事長の話

死刑判決を伝える産経新聞(2020年3月17日付け)

 奥田理事長の話は合理性に欠ける。具体的には(2)の部分でほとんど有り得ない状況を仮定し、そのような仮定の上に立って、結論を導いている点である。前提があり得ないから、その前提に立つ主張は現実と乖離しており全く意味がない。

 「我々に植松と同じ感覚があるなら、判決は社会をも裁いている」は、論理的にはその通りであろう。多くの人がそう思っていて、実際に植松被告が行動に移したら、それは社会の責任も小さくない。

 しかし、「障害者など生きている価値がない」「殺した方がいい」などと思っている人間が日本社会にどれだけいるのか。ハンディキャップを負った人のためにボランティアで手助けする人はたくさんいるし、そのような施設で働いて障害を持つ人の人生に役立ちたいと願う人はたくさんいる。そして、そのような障害者のための社会福祉制度構築・維持のために我々は多くの税金を支払っているが、それは国民の義務であると思う。ネットで植松被告と同じ発言を見たことがあるだろうか。

 植松被告と同じような考えの人間がほとんどいなければ、社会が負うべき責任などない。法的責任を含め全て植松被告が負うべき責任である。

■ナチス・ドイツなら国民に責任も納得

 実際に障害者を抹殺しようとしたのがナチス・ドイツ。ナチス党は民主的な手続きで政権の座に就き、その指導者が障害者に対して大量虐殺を行ったのであるから、民主的な手続きに手を貸した当時のドイツ国民は負うべき責任は少なくない。

 そういう状況であれば、社会が裁かれたと言ってもいい。奥田理事長は植松被告を「時代の子」と呼ぶが、社会が生み出した者だとして我々に責任の一端を押し付けようとするのは、罪なき者に責任を負わせる卑劣な行為である。

 奥田理事長に問いたい。もし、死刑が廃止されたらどうなるのか。犯行があった日、やまゆり園に植松被告が侵入した時点で、中にいたほとんどの人が生命の保障がない状況となり、実際に19人が殺害された。しかし、その悲惨な状況において、一人だけ生命を保障されるのが植松被告である。恐るべき殺人鬼だけが国家の権力の下、矯正施設で天寿を全うできるのである。

 「『生きてることに意味がある』という言い切りから始まるというベース」だから、当然、植松被告の命も大事だからという理由に、どれほどの人が納得できるというのか。言い切りから始まるベースでの議論を相手に強いて、死刑に賛成できないようにする。自らの主張に対して自由な議論を前提にしない時点で、聞くべき価値などない意見だと僕は思う。

■社会は変わる必要などない。粛々と死刑を執行しろ

 普通に考えて、事件は恐ろしい殺人鬼が起こした、許し難い悲惨な事件である。社会がこれで変わらなければならないことなどない。あるとすれば、これまで以上に強固な防犯態勢をとるべきことなどであろう。

 奥田理事長は「植松君ひとり殺したとて何も変わらない」と言っている。ならば、僕も言おうではないか。「社会は変わる必要などない。粛々と死刑を執行しろ」。

■<NPO法人抱樸:奥田知志理事長の話(動画でアップされたもの)>

 我々の社会は彼に対して、「お前はもう生きている意味がない。だからもう死刑にする」。それって見方を変えれば、彼(植松被告)自身が言った言葉だったのではないのか。

 植松君は結局「意味のない命は死ね、殺せ。役に立たない人間は殺せ」。この論理だったんですね。この植松君の”問い”に対して果たして社会の側はどう本当に考えたのか。私たちの中に「意思疎通ができない人は意味がない」とか、私たちの中に「生産性の低い人は生きる意味がないんだ」という感覚がもしあるならば、あの(死刑)判決は多かれ少なかれ今の社会をも裁いたのではないか。

 結局、彼が引いたと言われている分断線、役に立つ人間と立たない人間、意味のある命と意味のない人間、多分事件の直前彼自身が意味のない方に自分が属している、このままだったら自分は自分の論理からしても、殺されるしかない。そこを彼は一気に解決しようとして、彼にとっての「役に立つ」は障害者を抹殺するということだと。

 結論は全く間違っている。でも、その不安ですよね。「俺は生きていていいのか」というこの問い。それに対する答えがない。彼が言った意味のある命、ない命というあの言い方は、時代の言葉だったし、彼自身は時代の子だ。しかも、私もそうだ。

 でもね、百歩譲って、1万歩譲って、全く意味のないっていう人がもしいたら、それでもなお「命は大事だ」と言うのか。

 私はやっぱり言うんだ、言わないといかんと思う。植松君ひとり殺したとて、何にも変わらない。私たちは絶対的に揺るがない命こそ大事だ。「生きてることに意味がある」と言う言い切りから始まるというベースと、その上に成り立っていく生産とは何なのか。私たち正直「幸せって何だっけ」みたいな話をしていないんじゃないですかね。このことを真顔で議論しない限り、植松君の方が全く真顔で「それが不幸だ」と言い切ったことだから、「そんなことない」「これが幸せだったんだ」と、その議論を積み重ねていかないと、彼には勝てないと思いますね。

    "「植松君一人殺したとて何も変わらない」→変わらなくていい 粛々と死刑執行を"に6件のコメントがあります

    1. MR.CB より:

      》》ジャーナリスト松田様

      奥田何某が、死刑廃止論者かエセ人権主義者、エセ社会学者かは知りません。松田さんが丁寧に論破するまでもない、「ただのバカやろう」です。

      1. 松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵 matsuda より:

        >>MR.CB様

         コメントをありがとうございます。
         死刑反対派はこういう議論の仕方をします。この奥田氏は「命は誰でも大事」という大前提を否定できないようにして、相手と議論をするわけです。そうすると「被害者感情からして、死刑は当然」「予防措置としての死刑」という意見に対して大前提を持ち出してくるわけです。

         ただの●●やろう、は当たっていると思います。

    2. 照井 より:

      そもそも死刑って何かを変えるためにやってるわけじゃないですよね。
      人ひとりが到底償えない罪を犯してしまうか償う意思を見せない場合にやむなく行われるだけで、
      啓蒙のためでも見せしめのためでもないはずです。
      死刑廃止論者の方が死刑を過大評価しているように思えます。

      1. 松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵 matsuda より:

        >>照井様

         コメントありがとうございます。おっしゃるように死刑は「何かを変えるため」にやってるわけではありません。
         EU加盟国は死刑を廃止していますが、フランスの警察が犯人を容赦射殺するシーンが昨年末に話題になりましたよね。刑罰としては認めず、犯人検挙の段階ではかなり容易に人を殺している印象を持ちました。死刑廃止論者はそういう部分も考えて論ずればまだ話はできるのですが、実際は「殺すより殺される方を選ぶ」と平気で言うから、もう最初からお話にならない人ばかり。

         そういう人たちはまさに死刑を過大評価していると言っていいと思います。

    3. 野崎 より:

      死刑は刑罰としての意味以外に。

      個人の復讐を国家が行う代替行為といえるでしょう。

      極端に単純化して以下。

      他者からいわれなき被害をこうむった個人は復讐心を抱き、時には実行します。

      相手を許せたなら、相手から受けた被害はその程度ということでしょう。
      いかなる場合でも相手を許せる者はそれはそれ。相手を許せない者もいる。

      個人の復讐を容認すれば復讐の連鎖が起こり社会秩序は維持できない。
      よって法治により国家がこれを行う。

      殺人を禁止している国家が殺人を認めるのは矛盾だ、
      とする意見がありますが違うでしょう。

      国家は個人の集合体であり、個人,すなわち国民の意志、要求として。
      いわれなき被害にあったなら相手に死をもって償わせたいとの思い。
      極刑としての死刑を認める意志がある場合、多数決原理により死刑制度は確立する。

      死刑は原則
      加害者Aと被害者Bとの二者間の問題であり、第三Cはまったく関係ない。

      よってCがBに対し、Aを殺さず許してやれ、という権利はない。

      これは金銭の貸借に置き換えればよくわかる。

      債務者Ahが債権者Bに不履行を行った場合、第三者CがBに対して、Aを許してやれ、とう権利はない。

      娘を輪姦され惨殺された親が、その複数の犯罪者を殺したいとの意思、求めに対して、関係の無い第三者がk路してはならない、許してやれ、という権利はない。

      殺してはならない、とする根拠も日本人は持ちえない。
      何故人を殺してはならないか、の論理を構築できない。

      キリスト教国ならば、殺してはならない、は神の命令だからである、が根拠である。

      以上、私見です。

      死刑反対論者も犯罪者に対して死刑以外の重罰を認めはします。
      死刑反対論者には左翼が多い様に特殊な価値観からの反対意志があると思っています。

      相手から受けた被害と同等の罰則を与える、とする同害復讐法的措置も、
      その計量には問題が生じ、いずれにせよ被害者は被害者であり人の方法では救われませんね。

      御返信は不要です。

    4. 野崎 より:

      奥田知志氏に関して。

      記事より奥田知志なる人物に問題を感じ、おそらくは左派であろうと検索したところ。

      学生?左翼集団シールズの幹部?である若者の父親であると。
      その履歴からも推測どおりの左翼であった。
      さらにキリスト教プロテスタントの牧師であることが解った。
      牧会する教会の規模も大きく、キリスト教界内部、そしてキリスト教界から社会へ与える影響力は問題と考える。

      奥田牧師の目的は二つである。
      彼はタレントクリスチャン(私の造語)であり。
      (メディアでもしばしば取り上げられる戦う牧師 東八幡教会HPより)

      クリスチャンを装い自己への利益誘導を計る、その利益とは単に金銭のみではなくクリスチャンタレントとしての名声と社会的影響力の増大である。

      もう一つは左翼としての目的である

      それ故、奥田牧師は今般の事件を利用している。

      彼の発想、論理、行動はクリスチャンのものではない、それ故、彼はキリスト教、キリスト教界を利用し左翼としての目的を達成しようとしていることが解り、今回の事件を利用していることが解る。

      彼の主張は抽象的で、あえて論理性を持たせず又もし?という仮定や問いかけ表現を使い、巧みにごまかし論破されることを回避しているが、彼の主張から見える偽善、本音は以下である。

      この事件は単に一異常者(私見)の犯罪である。

      しかし奥田牧師は
      >あいつは極端な人殺しだ、とおさめてしまったら、何もこの事件から得ることができない。八幡教会HPより。

      奥田牧師は
      植松死刑因個人の考え、思想性? それを社会全般が(潜在的に)有しているとする。
      社会を構成するのは国民であり、つまり国民一人一人が(潜在的に)有している。
      と濡れ衣を着せる。

      そして
      >やまゆり園事件植松被告の死刑判決を受けて ーいま生きているということの絶対的な価値をつくる
      HPより。

      これはクリスチャンの発想、論理ではない。
      奥田牧師がよしとする価値観しか認めないとする社会を作ると宣言しているのである。

      植松死刑因の考え、思想性、それを社会、日本国民が有しているとする奥田牧師
      そのような実態は無いことを彼は百も承知だ。
      であるから、

      >だったのではないか?
      >もしあるならば?
      >あるならば?
      >あの(死刑)判決は多かれ少なかれ今の社会をも裁いたのではないか?

      と断定はせず又できず、それでいて、

      植松死刑因は時代の子だとする。
      時代を作るのは、その時代を生きる国民であり、その集合意識である。
      つまり社会は有していると結論づけている。

      であるから、
      社会が有するとする植松死刑因の価値観を否定し糾弾し。そしてその価値観を人から社会から根絶するのだ、としている。

      >彼には勝てないと思いますね。
      以下、氏のブログより引用。
      >彼が持ち出した価値観や主張を私たちは本当に根絶できるのか。
      >本当の勝負はこれからである。

      勝負するのだと決意表明している。

      ●この作意(濡れ衣を着せる)とこの発想、この論理は、彼がクリスチャンではない証左である。

      クリスチャンは人に内在する罪とその現れを人の力、自力により根絶できるなどとは思わない。
      犯罪者とその犯罪を糾弾しない。

      銀食器を盗んだジャンバルジャンを神父は泥棒、犯罪だ、と糾弾しなかった。

      社会学者、故小室直樹氏は端的に明確にキリスト教の教えを理解し、いわゆる福音を説明している。

      人は自力ではなく信じる信仰のみによって救われる。(罪による滅びから)
      人は罪人であるから善は行わないのだと

      奥田知志氏がクリスチャンならば、まして牧師ならば

      植松死刑因にこそ寄り添い、植松死刑因に神の福音を伝え、植松死刑因の救いを祈り、
      彼の死刑を憂うはずだ、そしてその意味を彼の教会で信者に説くはずが、だがまったくその動向は確認できない。

      オウム事件に関し、麻原 彰晃、オウム実行犯達の救いを祈るべきだ、彼らに福音を伝えるべきだとする主張がキリスト教界にあった。
      作家曽野綾子女史もその一人であった。

      奥田牧師との相違である。

      そしてここからが左翼としての顔が浮かび上がってくる。

      >植松君ひとり殺したとて、何にも変わらない。
      ひとりではなく、全員殺さねば何も変わらない、ということだ。 殺すの意味は無論殺人とは異なる。

      奥田氏の左翼の価値観が社会に普遍性を持たねばならない、という事だ。
      それは、いわゆる差別を許さない、とする社会の具現化を目的としていることだ。

      その社会は
      自分達の価値感に反するものは差別であり、それを許さないとする社会。
      ニューズウィーク誌が指摘した、反差別という名の差別、という左翼の社会だ。

      その様な社会が形成される危機感から
      ポリティカルコレクトネスという言葉が使われるようになった。
      一見、正論の裏に隠された本当の顔があるという意味であろう。

      奥田氏が行っていることはこの事件を利用し、社会に濡れ衣を着せ自己の利益を計っているのである。
      存在しない障害者差別を存在するとして、その差別という抽象概念、その言葉に力を持たせ自己に都合よく恣意的に使え他者を糾弾できる社会を作ろうとしているのだ。

      何故奥田氏は、この事件のみに過剰に反応しているのか?
      世間の耳目を集めるこの事件はクリスチャンタレントとしての知名度を上げるのに好都合であり、左翼としての目的達成の為にも合致しているからである、他の犯罪事件にはまったく頓着していない。

      御返信は不要です。

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