蘇る上尾高校4強の感激、昭和50年夏の甲子園 今太vs原辰徳
松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵
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1975年(昭和50)の夏の甲子園で上尾高校がベスト4に進出し、当時、中学3年だった僕を含め埼玉県民が熱狂してから44年の月日が流れた。今日8月23日、埼玉の実家に戻って上尾高校の快進撃を伝えるスポーツ新聞を取り出した。見出しは忘れもしない「逆転”金星”上尾マーチ」。セピア色に変色したスポーツニッポン(スポニチ)を読んでいると、半世紀近い昔の興奮が蘇ってくる。
■優勝候補筆頭の東海大相模 vs ノーマークの伏兵上尾
昭和50年8月20日、夏の甲子園10日目、準々決勝第2試合は東海大相模(神奈川)対上尾(埼玉)。原辰徳(現巨人軍監督)擁する東海大相模は優勝候補筆頭、対する上尾は全国的には全くの無名校である。戦う前に上尾高校が勝つと考えていた人間が一体、何人いたか。
しかし、試合は5-4で上尾高校が逆転勝ち。試合結果を伝えるスポニチの1面の写真が出色である。
ゲームセットの瞬間、笑顔で走る上尾・今太(こん・ふとし)投手と万歳する上尾・岩崎三塁手、その横で天を仰ぐ二塁ランナーの東海大相模・綱島。
勝者と敗者の明暗がくっきりと分かれた瞬間を見事に捉えている。スポニチのカメラマンがいい仕事をしているではないか。
第57回全国高校野球10日目(昭和50年8月20日)準々決勝第2試合
上 尾 101 000 030|5
東海大相模 002 200 000|4
(投手)回 打者 安打 三振 四死 失点 自責
今 9 43 11 1 6 4 4
村 中 9 38 9 4 5 5 3
■4の4原辰徳に真っ向勝負、優勝したかのような騒ぎ
僕はこの試合を自宅で観戦していた。テレビの前に正座して1つのプレー毎に「よぉぉぉし!」「あーーーー!」みたいな声を出していたのを思い出す。4回までに4失点、原辰徳に4打席連続安打(2打点)され、ヨレヨレになりながらも踏ん張る今太投手。
上尾が8回表に3点を入れて逆転し、5-4と1点リードで迎えた8回裏、二死一塁の場面でこの日、5打席目の原辰徳。(敬遠した方が…)と僕は思っていたような記憶がある。しかし、4打数4安打と打ち込まれている相手に真っ向勝負、2ボールから内角高めの球でキャッチャーファウルフライに打ち取った。
事実上、勝負を決めたこのシーンを、スポニチはこう書いている。
まるで優勝でもしたかのように大騒ぎする三塁側、上尾応援団の歓声を聞きながら、原はバットをたたきつけた。
僕もテレビの前で「よーーーし!、今(こん)、よくやったぁ!!!」みたいな、声をあげていたと思う。ちなみに僕は今太投手とは面識はない。
■東海大相模佐藤主将「負けるなんて思いもしなかった」
5回以降、東海大相模打線を0点に抑えた今太投手のコメントが掲載されていた。「確かに迫力のある打線だったが、追加点を許したら、もうおしまいだと思って必死に投げた」。これが昭和の夏の甲子園。当時の高校生は人生を賭けて、地元の期待を一身に背負って戦っていた…と思う。少なくとも「甲子園を楽しんできます」なんて、ナメたようなセリフを口にするヤツなんていなかった。
東海大相模の佐藤功主将は「負けるなんて思いもしなかった。しかも逆転されるなんて…。逆転を食ったのは今年に入って記憶がない」と放心状態で語ったとされている。
■時は流れ、人は変わるが、甲子園のドラマは終わることを知らない
こうして文章を書いていると中学3年の時の興奮が蘇ってくる。この新聞が出た昭和50年8月21日、僕は愛知県の親戚の家に遊びに行くため、熊谷駅でスポニチを買った。あれから半世紀近い月日が流れ、こうして、その新聞を見ながら文章を書いているのが不思議である。
電車の中で新聞記事を何度も何度も読み返した。その時に印象に残ったフレーズがこれ。
「時は流れ、人は変わるが、甲子園のドラマは終わることを知らない、三十八校、いや二千七百九十八校はもう四校になってしまった」。
今、読んでもいい文章じゃないか。
上尾高校 打数 安打 打点 三振 四死 失策 通算打安
(二)筑 井 4 1 0 2 1 0 11ー5
(中)新 井 4 1 0 0 0 0 14ー4
(遊)岩 城 3 1 1 0 1 0 11ー3
(捕)中 村 4 1 3 1 0 0 13-4
(一)塚 原 2 1 0 1 2 0 10-2
(左)川 島 3 2 0 0 1 0 10-4
(右)樋 口 4 2 1 0 0 0 10-4
(三)岩 崎 4 0 0 0 0 0 12-2
(投) 今 4 0 0 0 0 0 11-2
※スポニチ紙面を元に作成。塚原(2年)以外はすべて3年
懐かしい記事ですね。上尾高校1回戦の相手は私の地元、小倉南高校(北部福岡)でした。当時の福岡は、王者柳川商業(南部福岡)の黄金期。戦前の下馬評を覆して、甲子園出場を射止めた小倉南高校(公立)に、小学生の自分は大興奮でした。甲子園初戦で、まさか小倉南高校が負けるとは思ってなかったなぁ。今太投手、はっきり覚えています。二保投手も良かったんだけどなぁ…。
>>ケン様
コメントをありがとうございます。
まさか小倉南を応援していた方と46年後にネットを通じて話をするとは、想像もしませんでした(笑)。初戦は確か0-4で負けていた試合をひっくり返したと思います。「埼玉の高校が福岡の高校に勝つなんて…」とびっくりしていたら、次の相手が土佐高校で、また1点差勝ち。さすがに原辰徳の東海大相模には負けるだろうと思ったら、また勝ってベスト4へ。夢を見ているような日々でした。昔の甲子園はそれぐらい熱狂しましたからね。
今太投手は僕らのヒーローです。球も速くないし変化球も大したことなかったと思いますが、気持ちで投げるタイプなのか、とにかく粘って抑える。その泥臭さが埼玉らしくて良かったです。聞くところによると上尾高校で昭和50年組はその周辺で一番弱いと言われた世代らしく「それが4強だから野球は分からない」と野本監督が言っていたと、噂で聞きました。
ちなみに上尾高校の最強世代は昭和54年夏でしょう。牛島ー香川の浪商と初戦で当たって2-0とリードし、あと1人で勝つという時に牛島に同点2ランをレフトスタンドに放り込まれました。結果、延長戦で敗れたのですが、この時もショックでした。ただ、やっぱり、僕にとっては昭和50年組への思い入れが強いです。
その後、日刊スポーツに入って少しだけ巨人の取材をしたのですが、原辰徳選手と話をする機会がありました。見たまんまの好青年で、新米記者にも優しく接してくれたのが印象的でした。(原さん、高2の時は勝たせてもらって、悪かったね)と内心思いながら話を聞いていました(笑)。
2022年春のセンバツに上尾高校が21世紀枠の埼玉県推薦校になったという記事から、ここにたどり着きました。
昭和50年夏、私は当時同じ埼玉の川越市在住の小学校6年生でしたが、野本喜一郎監督率いる上尾高校の大ファンで、テレビにかじりついて応援していました。
延長で辛くも振り切った小倉南高校戦、サイクルヒットで話題だった強打者玉川選手のいた土佐高校戦、3番原・4番津末・エース村中と超高校級選手が揃った東海大相模戦ですべて1点差の接戦でモノにしてベスト4に。準決勝はのちに法政大学の監督も務めた鴨田監督率いる新居浜商業戦で、確か1回に幸先よく3点を先制したが、頼みの今投手が終盤つかまって4-3で逆転負け、決勝進出を逃しました。
その他の年でもなぜか上尾高校は甲子園で延長や1点差の試合が多く、ベスト4に輝いた前年の昭和49年夏も京都の平安に延長1点差負け、昭和54年夏は牛島-香川のバッテリーを擁した浪商に延長1点差逆転負け、昭和55年センバツでは6年前に苦杯を喫した平安に1点差で雪辱したが、帝京に延長で1点差で敗れました。
昭和50年夏、目立つイカリ肩からあまり速くない球ながら力投していた今太投手や、のちに巨人に入りプロとして芽は出なかったが、長くブルペン捕手として縁の下の力持ちとして頑張った、当時の中軸打者の中村捕手など。胸に漢字4文字で書かれた「上尾高校」のかっこいいユニフォームはいまだに目に焼き付いています。数年前に夏の北埼玉大会(甲子園は記念大会で埼玉代表は南北2校だった)で決勝までいきましたが、花咲徳栄に歯が立たずに負けてしまいとても残念でした。そして今回、2022年のセンバツでまた長らく甲子園から遠ざかっている上尾高校のユニフォームを見られたらいいな、と楽しみにしているところです。
>>Nick様
コメントをありがとうございます。
当時、熊谷市の中3だった僕も熱狂した一人で、あの頃の甲子園は本当に熱い戦いでした。後に僕の同級生が高校の教員になり、中村捕手と同じ職場になったと言っていました。彼が巨人にいたとは知りませんでした。
来春、上尾高校が出たら、応援します。ほぼ半世紀前と同じユニフォームが甲子園で活躍したら、胸が熱くなりそうです。上尾高校とは何の関係もない人間ですが、やっぱり特別な思いがありますので。
S50年ベスト4
1番セカンド筑井君、親戚です。
活躍前妻沼町の身内の葬式で一度だけお会いしました。
甲子園の活躍には、びっくりしました。
筑井さま、コメントをありがとうございます。ご親戚に甲子園ベスト4メンバーとは、鼻が高いですね。個人的に僕の母校も1982年の夏の大会に出たので甲子園まで応援に行きましたが、その時よりも興奮したのが1975年の上尾高校の活躍でした。あの後も1979年のメンバーが強かったようですが、僕にとっての上尾高校のベストチームは1975年です。
妻沼(めぬま)町も今は熊谷市ですか。懐かしい名前を聞けて嬉しいです。また、いらしてください。