岡田繁幸氏死去 落胆の1993年ジャパンC
松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵
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サラブレッドクラブ・ラフィアンの元代表の岡田繁幸氏が3月19日、死亡した。71歳。いわゆる「マイネル軍団」の総帥として、日本の馬産をリードしてきた偉大なホースマンとして、競馬ファンからも親しまれた。
■1986年東京優駿 ダイナガリバーに迫った伏兵
岡田氏は自身の誕生日である3月19日に北海道の自宅で息を引き取ったと報じられた。死因は不明。180cmを超える長身で、確かな相馬眼でファンの間では神格化されていた存在と言える。
僕も競馬担当の時代は何度か取材をさせていただいた。競馬担当として最初に取材した日本ダービー(東京優駿)が1986年、ダイナガリバーが優勝した年である。その時の2着馬が岡田繁幸氏の所有するグランパズドリームだった。
当時オープン特別だった青葉賞2着で優先出走権を手にしたが、本番では単勝14番人気。(出るだけだろう)というのが大方の予想だった。ところが4角で内に潜り込み直線で先頭に立つ大健闘。勝ったダイナガリバーとの差は半馬身で、大金星を挙げるところだった。後に岡田氏は「あの時は勝てると思っていた」と語っていたが、(単勝14番人気の馬で、そんなに自信があったのか)と驚かされたものである。
■1993年ジャパンC 落胆の2着
岡田氏の取材で最も印象に残っているのは1993年のG1ジャパンCである。米国から参戦したコタシャーンはこの年だけでブリーダーズCターフを含めG1を5勝していた。その年の米国年度代表馬、最優秀芝馬に選出されたほどの大物を、岡田氏が輸入を決めたのである。東京競馬場での調教も熱心に見つめ、日本の馬産を決定的に変えるかもしれない大物に熱い視線を送っていた。
レースは直線で粘るレガシーワールドにコタシャーンが迫るが、鞍上のケント・デザーモ騎手が腰を浮かせてゴール手前100mの標識をゴール板と間違えて追うのをやめてしまい、その後、気付いて再び追い出すが、1馬身4分の1差の2着に終わった。
この時、僕は東京競馬場で岡田氏に直接取材し、新聞にコメントを載せた。「前残りの展開に負けたということ。あのミスがなかったとしても勝てなかったと思うし、もし勝ったとしてもきわどい勝利。僕は3、4馬身突き抜ける脚を持った馬だと思っていたんですけどね」。
この時44歳だった岡田氏は「日本の馬とは次元が違う強さを見せると思っていたのに…」と、繰り返しボヤいており、負けたことよりも力の違いがそれほどなかったことにショックを受けていた様子。分かりやすく言えば、(こんなものだったのか…)という落胆ぶりであった。取材をしている側としては(正直な人だな)という印象を強く抱いたのを覚えている。
■相馬眼の天才の苦い経験コタシャーン
当時、外国馬の取材をしていた僕は、コタシャーンについて欧州の関係者がかなり辛辣な声を寄せていたことを聞いていた。
「あの馬はベン・ジョンソンだ」。
彼らは筋肉が隆々とした馬体は、薬物によるものというイメージを持っていたようである。フランスでデビューし、欧州ではG3を1勝しただけの馬が、米国では一変してG1を5クラ含む重賞6勝。米国では利尿剤のラシックス(フロセミド)使用馬は筋肉増強剤を使用しているのではないかと囁かれており、コタシャーンはその恩恵を受けていたと見る向きも存在した。そこで、ソウル五輪で薬物使用がバレて金メダルを剥奪された陸上短距離選手になぞらえて語られていたのである。
岡田氏の落胆は現実のものになる。コタシャーンは1994年に日本で種牡馬になったものの、これといった活躍馬を出すことができず、2000年にアイルランドに輸出されてしまった。
相馬眼の天才・岡田氏にすれば、コタシャーンは苦い経験になったに違いない。もちろん、種牡馬事業というものは非常にリスクが高く、失敗するのが当たり前で、岡田氏とて百発百中とはいかないのは多くの人がご存知であろう。
■埋まらなかったダイナガリバーとの半馬身差
岡田氏はダービー制覇に心血を注いでおり、「脚が折れてもダービーを勝てと馬には言いたい」と雑誌などで語っていたのが印象に残る。1990年代、岡部幸雄騎手らが「馬優先主義」を公言する中、勝負へのこだわりを見せる姿は清々しかった。
結局、ダイナガリバーとの半馬身差を埋めることなく、71歳で旅立つことになったが、それも人生というものかもしれない。偉大なホースマン・岡田繁幸氏のご冥福をお祈りしたい。
合掌
》》ジャーナリスト松田様
信頼できるホースマンとしてだけではなく、馬券ファンにとっても信頼できる希少な方でした。パドック解説は多くいますが、馬体やその馬の状態(いい時と悪い時の比較)を的確に評価出来る人は非常に少ないと思います。予想についても、結果に責任を持って真剣に取り組まれていました。長身でスレンダー、穏やかな表情は本当にかっこ良かったです。
小生も20代の頃に札幌競馬場で初めてお会いしました。唐突に、初対面の非礼にも関わらず、とても丁寧に接して頂いたことを今でも覚えています。日本の競馬ファンにとってはある意味で、社台グループの吉田さんと肩を並べるくらいの尊いホースマンだと思います。
ラフィアン、コスモ軍団の愛馬がいつかきっと英国ダービーを勝つ日が来るでしょう。
心からお悔やみ申し上げます。
競馬を楽しませていただき、ありがとうございました。
>>MR.CB様
コメントをありがとうございます。
岡田さん、本当に早すぎると思います。それにしても、コタシャーンの時が44歳、グランパズドリームの時は36歳ですから、その若さに驚かされます。僕が36歳の時、44歳の時に比べて、どれだけ大きなことをしているんだとあらためて思います。
優れた才能とともに若い力が世の中を変えていくというのを感じさせられます。