高1の江川卓 1971年の伝説
松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵
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夏の甲子園が開催中だが、オールドファンにひときわ印象に残るのは作新学院の江川卓投手ではないか。夏になると江川氏の高校時代の怪物ぶりがメディアで語られ、最近ではYouTubeでも対戦した選手が「江川は凄かった」という思い出話をすることも少なくない。もっとも江川伝説は「高2の秋が一番速かった」と言われるように、高校2年以降が主流。僕はたまたまそれ以前の江川伝説を聞く機会に恵まれたので、今回はそれを紹介しよう。
■元巨人の篠塚氏が語る江川伝説
江川氏は作新学院時代は1973年(昭和48)の春と夏に甲子園に出場した。春は準決勝で広島商に敗れ優勝はならなかったが、現在も残る通算60奪三振をマーク。
夏は2回戦の銚子商戦で延長15回、サヨナラの押し出し四球で甲子園を去っている。怪物江川の敗退は当時は社会現象にもなったと言っていい。
優勝こそできなかったものの、その圧倒的な力は今でも語りぐさになっており、同時代を生きた多くのプロ野球選手がその凄さを口にしている。一例を挙げよう。元巨人の篠塚和典氏がYouTubeで元巨人の槙原寛己氏のチャンネルに出演した際の話が興味深い。
篠塚和典氏(銚子商ー巨人):中学3年の時に、江川さんを生で見ているんですよ、銚子のグラウンドに遠征に来るっていうんで。ウチの学校(入学前の銚子商)とやったんです。僕は中学3年だったんです。…強烈だったね。体見てビックリしましたよ。…(高1の時に高3の江川氏と対戦した際は)自分のタイミングで構えて、テークバックして行こうかなぁって思ったらズドーンと、もう来た。もう(キャッチャーミットに)入ってる。そういう感覚ですよ。…高校2年の時が一番速かったんじゃない? 自分が(中3の時に)見た時。本人も言ってますよ。『オレ、高校2年の時、一番速かったかもしれないんだ』って。(ミスターパーフェクト槙原・【高校生の江川が最強⁉️】天才篠塚が苦手だった投手は❓【篠塚和典さん3/5】 7:30あたりから)
なお、篠塚氏が高1の時に高3の江川氏と対戦したのは、山梨県で行われた関東大会。その時に「どん詰まり」(篠塚氏)の安打を1本打ったと語っている。
江川氏は高校野球はもちろん、野球界という枠を超えた一種の社会現象になっていただけに、リアルタイムで見てきた世代には印象はひときわ強烈である。
■1985年斎藤章児監督との出会い
僕は日刊スポーツに入社した1985年(昭和60)、新人記者の定番である甲子園の地方予選の取材に駆り出された。担当は群馬県。この年の夏の甲子園はPL学園の桑田・清原が3年で最後の甲子園ということで、そこに注目が集まっていた。
予選が始まる前から群馬県の有力校を回って、甲子園への意気込みなどを聞いていた。東農大二高に取材に行った時のことである。当時の監督は、後に立教大の監督も務める斎藤章児氏(故人)。1967年(昭和42)から同校の監督を務めて19年目、45歳の壮年監督とはいえ経験は豊富だった。
取材の合間にこんな話をしてくれた。
松田:監督も長年やってらっしゃるので、良い選手をたくさん見てきたのでしょうね
斎藤:そりゃ、見たよ。最近では前橋工業の渡辺久信。あれは速かった。今、西武にいる渡辺だ。
松田:そんなに凄かったですか?
斎藤:もう、モノが違ったよ。プロでも相当活躍すると思う。それぐらいのピッチャーだ。
この時、渡辺投手はプロ2年目。1984年(昭和59)は1勝1敗、1985年は8勝8敗11Sと飛躍するものの、夏前はまだ全国区というわけではなかったように思う。その時点で斎藤監督は渡辺投手の活躍を予言していたのだから、さすがと言うべきであろう。
なお、東農大二は1983年(昭和58)夏の甲子園の県予選の準決勝で前橋工と対戦し、渡辺久信投手の前に0-4で敗れている。おそらくその時の印象を口にされたのではないか。
■「やっぱり江川だな」
取材の合間の話は続く。
斎藤:渡辺も凄かったが、やっぱり江川だな。
松田:江川は高校時代から有名でしたからね
斎藤:一度、作新学院と練習試合をしたんだ。その時、見たこともないピッチャーが出てきて、ウチはノーヒットノーランだったか1安打完封負けかをくらってな。確かに(いい球を投げるな)と思ったが、それ以上に(こんな良いピッチャーを何で今まで出してこなかったんだろう)と、不思議に思ったわけだ。
松田:それまで何度か試合をしていたでしょうからね
斎藤:そうなんだ。それで試合後に両校で食事をしている時に作新の監督に「先生も人が悪いなあ。あんないいピッチャーを隠しておくなんて」と冗談まじりに言ったんだ。すると、作新の監督が「隠すも何も、あれは1年生ですよ。入学したばかりです」と笑ってるわけだ。
松田:なるほど
斎藤:マウンドで堂々としていて、ふてぶてしいぐらいの態度だったので、てっきり3年だと思っていたら1年だっていうじゃないか。それで、オレも頭に血が上ってな。
松田:はぁ…
斎藤:生徒に「お前ら、メシ食ってる暇なんかないぞ! すぐにグラウンドに出ろ!」と言って練習させたんだ。入ったばかりの1年に軽くヒネられて、オレも腹が立って。
松田:その相手のピッチャーが江川だったと…
斎藤:そう。今から思うと、当時の生徒には悪いことをした。
松田:そうですか
斎藤:そりゃそうだよ。相手が江川だよ。打てなくて当たり前だ。江川は高2の秋が速かったとか言われるけど、なぁに、1年の時からすごかった。1年の時からモノが違った。
ちなみに1971年、東農大二は夏の甲子園の県予選で準決勝まで進んでいる。当時は決勝まで進出した2チームが栃木の決勝進出の2チームと北関東予選を経て甲子園に進むことになっていたが、東農大二は惜しくも北関東予選進出を逃している。しかし、群馬県内では4強に入る実力を持っていたわけで、そのチームを相手に高1の江川氏は練習試合とはいえノーヒットノーランか1安打完封をやってのけたのである。
江川氏の作新学院も栃木県予選の準決勝で宇都宮商に敗れ、北関東予選から甲子園の道を絶たれた。この年の夏の甲子園は北関東は高崎商が代表となり、1回戦で敗退。決勝戦は桐蔭学園(神奈川)が小さな大投手・田村隆寿を要する磐城高校(福島)を1-0で下し、初出場初優勝を遂げている。
■準優勝の宇部商との3回戦
江川伝説を語ってくれた斎藤監督の東農大二高は、1985年に県予選を勝ち上がり、見事に甲子園出場を果たした。1回戦で智辯学園(奈良)に延長10回の末、2-1で勝ち、2回戦は熊本西(熊本)に9-1で大勝。3回戦で準優勝する宇部商(山口)に5-8で敗れている。
その後、斎藤監督は2000年に立教大学の監督を務めた後、2019年4月に79歳で世を去った。晩年は車椅子生活で苦労をされたようであるが、群馬県の高校野球への貢献は大きく、関連するローカルテレビの番組への出演も多かったと聞く。
甲子園の季節になると、1985年夏、東農大二高のグラウンドで斎藤監督にうかがった話を思い出す。そして、僕だけが聞いたのかもしれない高1の江川伝説を思い出してはニヤニヤとしていたものである。
右も左も分からない新人記者にとっておきの話をしてくれた斎藤監督にあらためてお礼を申し上げるとともに、ご冥福をお祈りしたい。