23年後のサバイバー 若松泰恵(1) 始まりは扁桃腺
松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵
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「サバイバー」(TBS系)の出場者のその後を辿り、彼らにとってサバイバーがどのようなもので、今にどう活かされているかを探るシリーズ第2弾・若松泰恵氏をお届けする。”弱小”ベケウチームのメンバーとして最後まで生き残って第7位に入る見事なサバイバルぶりは、2002年の放送当時から目立つ存在であった。今も元気に地元メディアやモータースポーツの現場で活躍を続けており、第1回の今回は出場までの経緯を明らかにする。
◾️MCワカはFMで活躍中
名古屋市中区にある千早交差点の一角、一際目立つ赤く塗られた壁の奥に、ガラス張りのハートFMのスタジオがある。9月25日(木)午後4時、「BEAT WAVE」という番組が始まり、MCワカ(WAKA)の声が流れた。
「今日はですね、わたくし、このBEAT WAVE Thursday(木曜日)のですね、なぜだか取材が入っておりまして。この番組全体に取材が入るのは初めてだと思うんですけども、それでわざわざ東京から取材の方が来てくださっておりまして。多分、遅れてはいけないということで4時からの番組なのに、めっちゃ早く昼ぐらいにもう名古屋に到着して(ハートFMっていうのはどういうところなのかな)っていうので…」
この日、取材に訪れた筆者を話の枕に振って、通常のトークへと入っていく。そのスムーズな進行と滑舌の良い話し方は、喋りのプロとしてのスキルを感じさせる。コミュニティFMとして名古屋地区の人だけでなく、インターネットを通じて全国の人に声を届けている(JCBA・インターネットサイマルラジオ 東海地区)。
MCワカ(WAKA)は本名、若松泰恵(50)。2002年4月から始まったサバイバーファーストシーズンに27歳の時に出場、全行程39日のうち31日目まで残り、旧チームのメンバーが全員追放された後も孤軍奮闘して7位に入った。166cmのスラリとした体型に、端正な顔立ちから男性ファンが多かったことでも知られる。ネット上では「1stシリーズにおけるヒロイン的な立ち位置の人物」と紹介されている(Wikipedia・サバイバー (日本のテレビ番組))。
◾️中高の教員免許取得も実家に”就職”
若松氏は1975年、愛知県西尾市の出身。実家は工具店を営んでおり、3人きょうだいの長女で、番組出場時は実家の手伝いもしていたことから「工具店の看板娘」などと紹介されることもあった。小学校の頃、当時、人気のあったF1をテレビで見て、その魅力に惹かれた。
「最初にハマったのが(アイルトン)セナ、(アラン)プロストとか、中島(悟)さん、そのあたりの時代です。その後に(ミヒャエル)シューマッハです」と言う。好きだったセナの事故死(1994年5月1日)には「ショックでしたね。シュンとなってしまって、『もう見るのやめようかな』と思うぐらい」と言いつつも、一方で「人が亡くなったのにファンが減らないスポーツって何だろうと思いました。(ドライバーが)命懸けでやっているということも(人気の理由として)あるのかな」と複雑な思いを抱いたという。その後、『バイクも面白いな』と感じて興味の範囲を広げていく。
地元・西尾市で高校時代まで過ごして1993年に名古屋市内にある大学の文学部日本文学科に進学、近代文学を専攻した。受験科目では国語が得意で文章を書くことが好きだったこと、マスコミに入り編集やライティングをしたいという漠然とした思いがあり、4年制大学への進学を決めた。在学中には教職課程も履修、教育実習も行って中学・高校の国語の教員免許を取得した。
大学時代は就職氷河期と呼ばれた時代、母親が体調を崩したこともあり就職活動はせずに実家の事業を手伝うことにした。こうして「工具店の看板娘」というサバイバー出場時のプロフィールの土台が出来上がることになる。
もっとも実際に家の仕事を手伝うことになると、私生活も仕事も24時間、家族と一緒に過ごすことになり、それが苦痛になった。もともとマスコミ志望、タレント事務所の研修生に合格したこともあって横浜で一人暮らしを始め、東京で仕事をこなすようになる。しかし、簡単には仕事はもらえない。「CMのエキストラなどをしましたが、(定期的な)仕事は何もなくて。『25歳にもなって、私、何をやってるんだろう』と思って」(若松氏)、2000年に愛知県に戻る。
帰郷してすぐに自宅のPCを利用してホームページを作成、スポーツレポーターを目指し個人サイト「ワカの部屋」を開設(現在はmc_waka)。スポーツの観戦記をアップしていたが、同年10月には知人の勧めもあって得意分野のモータースポーツに活動の照準を合わせた。たまたまその知人がレース関係者に知り合いがいたため、ライダーヘルパーやイベントスタッフの仕事もこなすようになる。やがてトライアルデモンストレーションのMCという、重要なポジションも経験することとなった。
こうして「コネとも言えないような関係」(若松氏)を必死に手繰り寄せて、モータースポーツの世界に自らの居場所を確保していった。
◾️オーディション会場で会った個性豊かな人々
モータースポーツの世界で格闘していた2002年1月、たまたまテレビでサバイバーの出場者募集のCMを目にする。
「その頃、扁桃腺の手術をして、たまたま家にいました。普段なら絶対にテレビを見ない時間です。CMを見て『無人島で生活するって面白そう』と興味を持ち、ネットで検索して応募しました。住所、氏名に志望動機を書く程度で写真も送っていないと思います。応募フォームからの応募で、(あっさりし過ぎて)自分で出したことを忘れるぐらいでした」。
名古屋地区の会場に行くと面接があり「自分はどういう性格だと思うか」「男女が混じって集団生活をすることになりますが、うまくやっていく自信がありますか」など、「当たり障りのないこと」(若松氏)を聞かれた。「その時、私は『誰とでも仲良くなれるので大丈夫だと思います』みたいなことを言った記憶があります。面接担当の方が『こういう人が来るかも』『こんな人もいるかも』みたいな変な人の例を出したのですが、私は『全然平気ですね』と言いました」。
その受け答えがよかったのか、名古屋でのオーディションに合格してTBSで行われる面接に臨むことになった。指定された日にTBSに行くと大きな会議室のような部屋に集められた。50人程度が集まっていたという。
全国から集まった出場候補者を見ていると、個性豊かな人が集まっているのが感じられた。「すごく綺麗な女性が2人いました。タレントさんみたいなオーラをまとっていて。その2人はオーディションで仲良くなったのか、よく分からないのですが、私など名古屋の田舎の子ですので、その2人はいかにも東京の人という感じの華やかで綺麗な人だなと思いましたし、とても目立っていました」。
さらに自分の隣に座った男性に驚かされた。「その人、鏡を持っていたんです。自分の髪を気にしている様子で、言葉を選ばずに言えばナルシストっぽい感じでした。それでアンケート用紙が配られて『無人島に3つ持っていけるとしたら、何を持っていくか』というような質問があったのですが、その男性が『鏡』って書いているのが見えてしまって…。『この人、ヤバい』という印象を持ちました」。
◾️集合した16人のサバイバー
この時の合格者の発表はTBSの特番の中に組み込まれた。若松氏の自宅にTBSのスタッフが合否が入った封筒を持って訪れ、封を開けてそのリアクションを撮影したいという趣旨の話を事前に伝えられた。「それを聞いた時に完全に合格したと思いました。『まさか愛知県まで来て不合格はないでしょう』『不合格を撮りに来ないでしょう』と」。
若松氏の予想通り、封筒の中には合格通知が入っており、後に番組で使用するスポーツレポーターとして選手をインタビューするシーンなどを撮影していった。
こうして2002年4月から始まる番組の出演者16人が決定し、舞台となるパラオに向かう前にTBSに全員が集められた。会場に行くと「いかにも東京の人という感じの華やかで綺麗な人たち」と感じた2人の女性も合格していたことを知った。それが中島瑞果氏(当時30歳、珈琲豆専門店店員)と石毛智子氏(当時25歳、帰国子女)であった。
また、隣で鏡を見ていた”ナルシスト”の匂いがする男性の姿を見かけて、(あ、いた!)と声を出しそうになったという。それが岡部泰三氏(当時26歳、ボーイスカウト日本代表)であった。
石毛氏とはベケウチームで一緒になり、最後は追放の対象としてお互いの名前を書いて争うことになる。また、中島氏は31日目に若松氏の名前を書いて追放のための1票を投じる。もちろん、その時点で若松氏にはそんな未来は想像すらできなかった。
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23年後のサバイバー 若松泰恵(2) 独立系の苦悩 へ続く








