日刊スポーツの歴史に残る社長解任劇(2)三浦氏の”脅し”に芽生えた不信感

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

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青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。
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 2011年6月28日、三浦基裕社長が事実上解任された定時株主総会が終わった時、僕は本社ビルの4階で仕事をしており、総会があったことすら知らなかった。しかし、総会には株式を持っている社員も出席しており、そこから話が伝わり職場に三浦社長解任の報は一気に広がった。

■三浦さん、やっぱり切られたんだ…

2011年3月11日、大地震当日の日刊スポーツ横の築地川公園

 僕も同僚から「社長がクビになった」と聞かされ、驚いて当時の直属の上司に聞くと「修正動議が出されて、会長が賛成したらしいよ。いやあ、びっくりだねえ」と教えてくれた。

 (三浦さん、やっぱり切られたんだ)とその時に思った。実は総会の9か月前の2010年9月、三浦社長と直接話す機会があり、その時に(ひょっとしたら、この人、クビを切られるんじゃないかな)と思っていたのである。もっともそれは関連会社の社長や、相談役などへの左遷、棚上げと思っていたのだが、まさか日刊スポーツから追放という形になるとは考えもしなかった。

■日刊スポーツ労働組合委員長経験者の三浦氏

 ここで時代が一気に遡る。三浦氏に対して「この人はダメだ」と思った出来事があったので紹介しておく。ほんの短いやり取りであるが、それが三浦氏に対する決定的な評価につながり(いずれは底が割れるのではないかな)と考える遠因となっている。

 僕は1996年から日刊スポーツ労働組合の執行部に入った。1年目が書記長、2年目が委員長である。僕が委員長となった時に会社が新しい人事賃金制度の導入を組合に提案してきた。これまでの年功序列制度を廃止し、実力主義・成果主義を取り入れようというものである。そのために社内に「新人事賃金制度検討委員会」といった名称の委員会が立ち上げられ、12~13人程度の社員が集められた。管理職もいれば、定年直前の平社員もおり、組合からは委員長である僕と書記長が入った。最後は組合が会社と新しい労働協約を締結することになるから入るのは当然であろう。当時、部長職か局次長職にあった三浦氏も入っていた。そして、三浦氏は僕の数代前の労働組合委員長でもある。

■1990年代の日刊スポーツの前近代的制度

 当時の日刊スポーツはほぼ年功序列と言っていいような人事制度で、社歴のある者が地位も給料も高いという組織になっていた。それによって生じる弊害を緩和するために若くして出世するエリートコースに乗る社員を作り、若い血を経営に入れていたのである。その代表例が三浦氏と言っていい。

 新制度は社歴による社員の格と管理職という地位を分離して、機能的な組織にしようという趣旨。管理職のリストラを進め、収益を成果に見合って適正に再配分するのが会社の狙いであったと思う。同時に社員の格を決めるために客観的な評価を取り入れて、人事権を総務局が主導し、より透明度の高いものにする狙いもあると考えられた。

 これには裏の狙いもあったと思う。当時は先代の川田博美会長が絶対的な権力を持ち、そこに総務の職員として入社したMという女性が寵愛を受け「女帝」と呼ばれるほどの権勢を誇っていた時代。メディアでもよく取り上げられていたのでご存知の方もいるかもしれない。「女帝」対策で人事の客観性の確保、人事権を総務を中心とした会社側に移すという狙いもあったと想像している。

■新制度導入へネックとなった組合の体質

 新制度の話を聞いた時は、半信半疑だった。というのも委員会の責任者である労務担当の取締役が当時の社長に取り入って出世していったプロパーで、無能を絵に描いたような人物だったからである。

 それが一気に新制度導入に傾いたのは、委員会が2週に一度開催される中、6月の株主総会で無能な取締役が当時の社長とともに左遷され、新たな労務担当取締役が朝日新聞からやってきたことによる。新しい取締役は前近代的な制度を変革しようという意識を持っていたようで、(この人ならうまくやってくれるだろう)と感じられた。その時から(次の組合委員長は新制度の導入に反対するかもしれない。僕が組合委員長でいる間に署名しよう)と決め、その方向で動いた。

 僕の考えに気付いたのか、新しい取締役は秋ぐらいから「本当に君は1期1年で委員長をやめるのか?」と2、3度聞いてきた。その度に「絶対に辞めます。過去に2年やった例はありません」と断言して、暗に(僕の任期内に妥結しないと先は見えないから、早く進めてくれ)とアピールしていた。

 ここでネックになるのは組合の古い体質である。日刊スポーツの労働組合の代々の執行部は会社側の経営をチェックする組織で、野党のような精神を持つべきという考えが支配的であった。それだけに会社と協力して新人事・賃金制度を導入するのは、組合が会社の言いなりになるもので望ましくないと考える者も少なくなく、実際に僕と一緒に参加していた書記長はそうした考えだったように見えた。そして、三浦氏は僕の数代前の委員長であったことは前に述べた通りである。

■三浦氏が僕に放った脅しのようなセリフとは

 委員会は2週間に1回程度の頻度で行われたが、僕は前出のような事情から表面上は導入に積極的な姿勢を見せないようにしていたが、やはり前向きな部分は見えてきてしまう。定例の委員会終了後、三浦氏が僕のところにやってきて、こう言った。

三浦:組合は新制度に賛成なのか?

松田:少なくとも頭から反対ではありません。制度についてよく聞いてみないと今の段階では分かりません。

三浦:最後は組合員の意思だからな。

松田:そうですね。

三浦:お前、会社と一緒になって導入する気か? 組合の立場というものはどうなんだ。

松田:何から何まで反対するのが組合ではないでしょう。会社が健全化することで組合員に還元されればいいんじゃないですか。

三浦:そんなこと言ってると、お前、(組合員から)不信任食らうぞ。

松田:あなたは管理職で、もう組合員じゃない。組合員じゃないあなたに、そんなことを言われる筋合いはない。組合委員長は僕だから、僕が決める問題だ。

 最後は強い口調で言ったのを覚えている。三浦氏は黙って歩いていってしまったが、これをきっかけに少なくとも僕は三浦氏を信用することはなくなった。

 当時の三浦氏の真意は分からないが、僕には彼が組合の思想のようなものにとらわれて、組合を含む会社全体が見えていないように思えた。(この程度の考えしか出来ないのに、何で出世しているのだろう)と不思議に思えたし、(トップになってはいけない人だな)と思った。

 しかし、そうした不安をよそに三浦氏は出世を続け、2009年には社長になった。そして僕が(ひょっとしたら、この人、クビを切られるんじゃないかな)と思う直接のきっかけとなった出来事が2010年9月に起きるのである。(第3回へ続く)

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