野田秀樹氏 自助努力なしに「我々だけ認めて」の身勝手な意見書

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。

 劇作家・演出家の野田秀樹氏(64)が3月1日、自身の公式サイトで「公演中止で本当に良いのか」という意見書を公開した。政府の新型コロナウイルス感染対策としてイベントの自粛を要請したものに対して、公演の続行を訴える内容。読んでみると、何とも身勝手で論理性に欠けるものとなっている。

■野田秀樹氏の意見書「悪しき前例を作るな」

野田氏の公式HP「野田地図」から

 野田秀樹氏の意見書全文は毎日新聞や朝日新聞に転載されているので、ご覧になっていただきたい。その内容を簡単に説明すると以下のようになる。

演劇は観客がいて初めて成り立つ芸術で、スポーツと異なり、無観客では成り立たない。

劇場を閉鎖すると再開が困難になり、演劇の死となりかねない。

感染症撲滅には異議はない。

しかし、劇場閉鎖の悪しき前例をつくってはならない。

上演を目指す演劇人に「身勝手な芸術家たち」との風評が出かねない。

公演収入で生計を立てる舞台関係者のことも考えてほしい。

劇場公演中止は、考えうる限りの手を尽くした上での、最後の最後の苦渋の決断であるべき。

 こうした言い分を述べ、最後に「『いかなる困難な時期であっても、劇場は継続されねばなりません。』使い古された言葉ではありますが、ゆえに、劇場の真髄をついた言葉かと思います。」と締めている。

■劇場公演での感染リスクの高さ

 理解していただきたいのは、劇場公演は感染のリスクが非常に高いということである。屋外で行われるサッカーやラグビー、競馬でさえ中止や無観客で競技が行われている現状。室内の狭い空間に多くの人が詰め込まれる劇場公演は上記スポーツより遥かにリスクが高いことは、素人である僕でも分かる。そうなると感染拡大防止のために、真っ先に中止しなければならないのは劇場公演である。

 感染してもいいという人だけが集まって鑑賞するならいいのではという考えもあるのかもしれない。しかし、その後、それ以外の人に感染する可能性が生じるのであるから、感染を覚悟しようがしまいが、劇場公演を鑑賞すること自体、許されない。

 それなのに、他のイベントとは分けて劇場公演だけを認めてほしい理由は何なのか。意見書を読む限り細かい理由があれこれ書いてあるが「劇場を閉鎖すると再開が困難になり、演劇の死となりかねない。」という一点に尽きると思う。

 劇場を閉鎖するとなぜ再開が困難なのか、理由が書かれていない。その時点でこの意見書は論理性に欠けていると思う。劇場公演は一度中止にしたら、その後、観客は二度と足を運ばなくなる特殊なイベントというわけではないはず。察するに劇団などの経済基盤が弱いために、存続が危うくなるということなのであろう。それはの「公演収入で生計を立てる舞台関係者のことも考えてほしい」と主張していることからも推認できる。

 もし、そうであれば、安倍首相は会見で小規模事業者が直面する課題について強力な資金繰り支援をはじめ、地域経済に与える影響に対策を講じると言っているのだから、その線で救済を求めれば済む話。そうすると劇場公演を中止させるなという主張は、根拠を失っていると言っていい。

■演劇は本当に無観客では成り立たない?

 そもそも演劇が無観客では成り立たないということ自体、疑問。無観客で演じ、ネットなどを通じて有料配信するなどの手段も取りうる。逆にそのことで新しいビジネスにつながる可能性もある。

 そうした自助努力をせずに、最も感染リスクが高い自らの行為を「我々だけ特別に認めて」と主張することが、演劇界のリーダー的存在である人がすることなのか。演劇人である以前に一社会人として恥ずかしくないのか。

 演劇が貴重な文化であることは認めるが、それは、それを許容する社会があって初めて成立するものである。国民が生きるか死ぬかの危機にさらされている社会状況において、演劇が絶対に必要なものである理由などない。

 芸術家としての野田秀樹の名前を汚さないような言動を心がけていただきたいというのが多くの国民の思いであることを、野田秀樹氏は理解すべきであろう。

    "野田秀樹氏 自助努力なしに「我々だけ認めて」の身勝手な意見書"に10件のコメントがあります

    1. 匿名 より:

      あなたは、演劇の歴史をご存じない。なぜ演劇が観客無しでは成り立たないのか、ご存じない。世界的な視点から見て、演劇の価値がいかなるものか、ご存じない。

      1. matsuda より:

        演劇を知らないから、何ですか?
        演劇関係者は世間が必死に感染拡大防止に尽くしている時に、感染拡大をしてもいい、ということでしょうか?

    2. あすなパパ より:

      延期にすればいいだけでしょ?どこの企業も大変なんだよ!演劇だけじゃない!会社だって一時的にクローズしなければならないかもしれない!
      それだけ、緊急事態なんでしょ?
      自分だけの利権を守ろうとしちゃだめだよ!

      1. matsuda より:

        >>あすなパパ様
         コメントをありがとうございます。おっしゃる通りだと思います。
         この事態になっても、まだ、既得権にしがみつくことしか頭にない演劇家には失望させられます。

         野田秀樹さんも、東大を出た優秀な方なんですけどね…。

    3. 匿名 より:

      あなたの全体的な主張には同意。だが「ネットなどを通じて有料配信するなどの手段も取りうる」というのはおかしい。演者と観客が一つの場に集まり、身体性を通じて世界を開いていくのが演劇だからだ。また、「貴重な文化」が「それを許容する社会があって初めて成立するものである」というのは、世間の同調圧力によってマイノリティの文化が抑圧されていくことを是とする意見で、多様性を確保し個々人の生き方の選択肢を増やすべきという観点からはあまり感心できない考え方だ。もっとも、だからといって野田氏の言っていることが間違っていることには変わりはないが。

      1. matsuda より:

         ご意見として承っておきます。
         色々な考え方があっていいと思います。

    4. 野崎 より:

      演劇の価値?
      何か演劇が世俗より崇高な特別ものだとでも?

      元ヤクザの作家故安部譲二氏は言った。
      芸能の世界の人間は、こちらの世界の者達であると、表現として正確な記憶ではないが、まっ大体こんなような、、

      広義にハリウッド、そのスターシステムも演劇の世界であろう、舞台だけが演劇ではない。

      いわゆる演劇は純粋行為、無償の行為としての芸術表現ではない。
      そこには富、名声、ある社会的地位を得るための願望、その要素があるのだ。

      その行為は一般の社会生活とは異なり、その希求は一般の社会人が求めるものとは異なる。
      よって、カタギ、ヤクザ、との表現があったのだ、その意味での安部氏の言葉だろう、安部氏によるとカタギはもはや死語に近いと。

      野田氏とやら、自分の名がより売れる機会を逸することは許されない、と聞こえる。

      御返信は不要です。

    5. 野崎 より:

      最近、使われている言葉、同調圧力によりマイノリティの文化や多様性が阻害される?

      大学紛争当時、日本には暴力革命が必要だ、と本気で考える学生が多数いた。
      結果咲いたあだ花が赤軍等だ。
      状況認識を過つのは抑圧されていると自認する左翼の特徴だ。

      今や、日本はマイノリティの文化を認めよ、多様性を主張するサイドからの圧力により自由にものが言えなくなりつつある、それはヘイトだ、差別だと。

      同性愛を認めなければ差別主義者であるかのように、まさに同調→その圧力化が進む可能性がある。
      最近、その状況が進んだ一定段階をポリティカルコレクトネスと称しいてる。

      >貴重な文化」が「それを許容する社会があって初めて成立するものである。
      演劇は貴重とのことだが、表現の自由があってこそ成立する芸術表現だ。

      演者と観客が一つの空間を共有することが演劇の必須条件である訳が無い。

      何を演ずるか、いかに表現するか、だ、アクターの演技力は狭義の条件でしかない。
      この意味で舞台に拘泥する必要はない、より表現を高める可能性のある方法論もある。

      つまり前提条件により、あの劇団の空間など行きたくもないとの選択があるのである。
      空間共有自体に意味はない。

      同じく、お前は演劇の歴史を知らない、も 演劇表現の何たるかを理解していない。

      狭義に、日本の新劇は左翼の牙城であったしプロパガンダであった。
      この場合、演劇とは何なのか、空間共有とは何なのか。

      >ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
      >左翼演劇は新劇の主流を占めた。第2次世界大戦後は急進的な理論を揚げる劇団は姿を消したが,新劇一般を「左翼演劇」とみなす風潮が 70年代頃まで続いた。

      演劇表現の何たるか、とは、送り手と受け手の関係性だ。

      坊主であった作家、故今東光氏は集英社の雑誌、週刊プレイボーイで人生相談を行っていた。

      ある若い詩人とやらの、
      自分は万人の胸をつらぬくような詩が書きたい、どうすれば可能か? との質問があり。
      印象に残っている。

      今氏は伝法な口調? で、
      そんなことあるわけね~じゃね~か、と、
      送り手と受け手の問題なのだと。

      中学生に人生の修羅場を経て来た大人の人生観を伝え手もわかるはずはない、女性遍歴に関してもだ、痴情の果て、というやつがガキにわかる訳が無い。

      そして、何よりも送り手に内包される傲慢さということだ。

      自分は万人の胸をつらぬきたい、とは、わからせてやりたい、ということだ。
      お前は演劇の歴史を知らない、演劇がわかっていない、と他者を評価することと同じだ。

      送り手の予想を超えて受け手は、それから見るもの、見えることがあるのだ。
      つまり人がいかに、その人生を生きているか、ということだ。
      何をどう見て何を思い感じるかは、その人間の生き方そのものだ。

      お前は演劇の価値を知らないとは、相手の生き様を知りもせず相手を否定するという事だ。

      御返信は不要です。

    6. 林 征生 より:

      何事も理想論と現実論があり、野田氏の件は前者であり松田氏は後者であり、もっともなご意見だと思います。

      クラスターの恐れがある、多くの興業をはじめ飲食店などの企業は終わりの見えない戦いをしている中で、「新劇的理想論」は無用です。

      拡大期にならんとしているこのタイミングでは違うやり方で表現するのが、真の表現者だと私は思います。

      1. matsuda より:

        >>林 征生様
         コメントをありがとうございます。
         演劇が貴重な文化であることは誰も否定しないと思います。ただ、同時に感染症の場としては非常にリスクの高いものであるのも確かです。

         演劇が貴重な文化であったとしても感染拡大は国民の命に関わること、という意識を野田秀樹氏には持ってほしいです。

        >>拡大期にならんとしているこのタイミングでは違うやり方で表現するのが、真の表現者だと私は思います。

         その通りだと思います。賛同致します。

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