台湾語歌謡と日本演歌 政治に揺れた75年
葛西 健二🇯🇵 @台北 Taipei🇹🇼
最新記事 by 葛西 健二🇯🇵 @台北 Taipei🇹🇼 (全て見る)
- 台灣隊前進東京 ”12強賽” 初の4強に熱狂 - 2024年11月19日
- 台湾はワクチンの恩忘れず 能登半島地震「義氣相助」 - 2024年1月28日
- 大谷選手めぐり台湾の記者”出禁”騒動 - 2023年7月9日
半世紀の日本統治を経て国民党に接収された台湾は、音楽も政治的状況を反映した独自の発展を遂げています。逆に台湾の歌謡界を知ることは、その複雑な歴史を知ることにもなります。
■鄧麗君の後継者 台湾の歌姫 蔡幸娟さん
台湾音楽界を代表する歌手の一人である蔡幸娟さん、綺麗で透き通った歌声は一度聞くと耳から離れません。蔡幸娟さんは1980年に14歳で歌手デビュー、デビュー曲の「夏之旅」は大ヒットとなり、歌唱力の高さと可愛らしい容貌で蔡幸娟さんは一躍スターとなりました。その後も「中國娃娃」(1984)「東方女孩」(1989)「緣份」(1994)等多くのヒット曲を出しています。
またコンサートや歌番組出演時には鄧麗君(テレサ・テン)さんの曲をよくカバーしており、「小鄧麗君(鄧麗君の後継者)」とも呼ばれています。また同時に日本の昭和歌謡曲も流麗な日本語でカバー、時にはコブシの効いた日本演歌も歌うなど、幅広い歌唱力を持つことでも有名です。
彼女のヒット曲には「台語歌(台湾語歌曲)」も多く、また台湾語歌曲アルバムを積極的に出すなど、「台語歌神 (台湾語歌姫)」としても確固たる地位を築いています。台湾には「國語歌」(マンダリン=北京語・中国標準語の歌)と「台語歌」(台湾語の歌)があり、近年までは「國語歌」=若年層・壮年・中年層を中心に支持、「台語歌」=高年層中心のファンと区分される傾向にありました(後述)。この台湾語歌謡と日本の昭和歌謡や演歌には深い繋がりがあります。
■1945年日本語禁止・1963年には台語歌謡の一般放送禁止
1945年の台湾接収以降、国民党は日本語の使用を禁じ、台湾社会から「日本」を排除していきます(もっとも、口述調査で私自身が曾てインタビューをした人は複数人が、当時からヤミで日本の書籍、日本語歌曲のレコードや、後にはカセットテープが結構公然と売られていて容易に入手することができたということです)。
台湾語歌謡製作に携わった作曲家や歌手は大部分が日本統治下で日本語教育を受け日本歌謡を聴いて育った世代でした。彼らは当時禁止されていた日本の演歌や歌謡曲を手本とし台湾語歌謡へ、そのエッセンスを取り込み、台湾語歌謡は成長発展していきます。この1960年代初期まで台湾語歌謡はラジオやテレビで流され、台湾の人に愛されてきました。しかしその後国民党政府は「國語政策」により日本文化だけではなく「台湾」文化の抑圧排除をも強化していきます。
1963年には台湾語歌謡の一般放送が禁止され、台湾語歌謡界に苦難の時代が到来します。台湾語歌手の多くは国語歌謡への切替や海外進出を余儀なくされます。この時期以降台湾語歌謡は日本演歌の悲しみや憂いを帯びたメロディをより積極的に取り込み、自身の置かれた境遇を表現していきます。台湾ではよく「台湾語歌謡と日本の演歌は似ている」と言われますが、相似性にはこのような歴史的社会的背景があるからです。
■1987年戒厳令解除、進む民主改革の中で
1987年の戒厳令解除とその後の李登輝政権による民主改革の中で台湾語歌謡もようやく表舞台に登場、テレビやラジオで台湾語歌曲が流されるようになり、「愛拚才會贏」(1988)、「向前行」(1990)のヒット曲を出します。更に禁制下で国語歌謡を余儀なくされていた歌手や制作者の中にも再び台湾語歌謡へと舵を取り直す者が現れ、台湾語歌謡市場が活気づいてきます。
そして台湾語歌謡と同じく公の場での使用が解禁された日本語歌曲についても注目が集まっていくようになります。日本の教育を受け日本をよく知りそして日本が母国であった世代により、日本歌謡である演歌を母体として熟成されていった台湾語歌謡界では、日本語解禁を受け日本演歌のカバー製作、テレビやラジオの台湾語歌曲番組での演歌歌唱等を積極的に展開していきます。
そのような流れの中で台語歌謡、日本の演歌に挑戦した1人が、1980年デビューの蔡幸娟さんだったのです。「時の流れに身をまかせ」「恋におちて -Fall in love-」「長崎は今日も雨だった」などを日本語で、もしくは日本語を交えて歌う姿はYouTubeで見ることができます。
さらに1990年以降カラオケの普及により世間でも気軽に日本語歌曲を楽しむことができるようになり、演歌は日本を知る世代(日本教育経験者やその家庭で育った戦後世代も含む)から一層の人気を集めるようになります。近年は日本のカラオケ雑誌「カラオケファン」の中国語版も「日本演歌情報雑誌」の見出しで定期刊行されたり、またカラオケだけでなく演奏を楽しみたい人の為に演歌楽譜や教科書が出されたりするなど、台湾で演歌は一つのジャンルとして定着、人気を得ています。台湾での演歌とは、台湾語歌謡作り手の「回帰」と聞き手である日本語教育経験者の「懐古」が混じり合い生まれた市場(土壌)であると言えるでしょう。
1999年から現在まで20年以上に亘り八大テレビで毎週週末ゴールデンタイムに放送されている「台灣演歌秀」は、台湾語歌謡曲歌手を番組に招きトークと歌を披露する人気番組です。番組中ゲスト歌手は台湾語歌曲と合わせてしばしば演歌を歌います。これは台湾語歌謡支持者と日本演歌ファンが同じ層であることの表れだと考えます。また番組名に「演歌」とあることからも、台湾における演歌と台湾語歌謡の歴史的文化的な密接な繋がりが窺えます。
台湾では演歌及びここから生まれた台湾語歌謡が等しく扱われていると捉えることができるでしょう。そして台湾語歌手である蔡幸娟さんが台湾語歌謡と同じ支持層を持つ日本演歌ファンを対象に日本語歌謡を歌うのは自然なことなのです。
【台湾語歌謡の変遷については 以下を参照】
Eric Scheihagen「完整回顧,臺灣禁歌史」(故事、2015年6月3日)、「聆聽不一樣台語歌的溫度」(中正之聲、2019年5月21日)
許震唐「濁水溪畔的大眾詩』 (報導者、2020年11月8日)
曹郁美「台灣是復興島也是美麗島?戒嚴時期的四首『台灣之歌』」(鳴人堂、2020年11月19日)
■新世代の台湾語歌謡と今後の演歌市場
20年以上に亘る台湾語歌謡の禁制は、台湾語歌謡を知らない世代を生み出すことになりました。これが近年言われていた「國語歌」=若年層・壮年・中年層を中心に支持、「台語歌」=高年層中心のファンということです。若年層・壮年・中年層にとって「自国の歌曲」=「國語歌」です。歌を通じて、共通の言語を介して祖父や父親の世代と繋がることができない。ここに家庭内における「世代間の断絶」という台湾の深刻な社会問題の一側面が浮かび上がっています
呉念真監督は「多桑」(1994)で、親子でありながら言語疎通に問題が生じる台湾の社会問題を克明に描き出しています。1993年以降小学校では「台湾語」の授業をカリキュラムに取り込んでいます。しかし「國語」の社会で育った世代にとって「台語」は母語以外の言語、そして日本語と台語で人生を歩んできた世代にとって「國語」は母語ではありません。家族、肉親でありながら異なる言語を母語とするという環境が台湾の歩んできた過酷な歴史を物語っていると思います。
しかし、この数年変化が見えてきました。ロックバンドや若手アーティストによる台湾語を用いた「自国の歌曲」の実践です。若年層に人気のロックバンド「滅火器」や「茄子蛋」は台湾語で創作歌唱しています。そして2015年には台湾の音楽界最高峰の「金曲獎」の年度最優秀歌曲に滅火器の「島嶼天光」が選ばれ、台湾語を用いた歌唱に対して支持層の広がりを見せています。
ただし、これはロックやポップスからの台湾語へのアプローチであって、「台湾語歌謡」とは異なるものです。普段あまり台湾語を使用しない(または台湾語を解さない)若年~壮年層がこの試みを「新しい」と感じたのに対し、台湾語歌謡は「オールドスタイル」を好む高齢層のファンで支えられています。
「回帰」と「懐古」から生まれた台湾の演歌市場も然りです。この支持層が更に年を重ねていく、台湾語歌謡そして台湾での演歌の将来は安泰とは言えないかも知れません。国民党の政策が生み出した「自国の歌」の溝を埋めるのは、簡単なことではないと思います。