23年後のサバイバー 若松泰恵(5) 冒険は続く
松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵
最新記事 by 松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵 (全て見る)
- YouTube 令和電子瓦版が発進 登録50人に到達 - 2025年12月9日
- 分娩費用保険適用化案に産婦人科医会など反発 - 2025年12月8日
- 分娩費用の保険化議論 2030年度まで延期を提案 - 2025年12月1日
人気番組「サバイバー」(TBS系2002年放送)に出場した若松泰恵氏(50)の活躍を振り返る連載の最終回をお届けする。番組出場後、自ら目指したモータースポーツの世界での活躍を続ける一方、保育士、認定ベビーシッターなどの資格を立て続けに取得して人生の幅を広げている。ワカの冒険は続く。
◾️日焼けしたキャンペーンガール
パラオから戻った若松氏は、モータースポーツの仕事を続ける。スポーツレポーターを目指していたが、キャンペーンガールの仕事もこなしていた。鈴鹿サーキットでパラソルを持ってにっこりと笑う写真を広告代理店の人に撮影してもらった時に、一緒にいた広告代理店の女性が不思議そうに尋ねた。「何でそんなに肌が黒いの?」 サーキットには多くのキャンペーンガールがいるが、真っ黒に日焼けした女性はさすがにいない。しかも晩春から初夏にかけての時期である。
「それは変だな、と思いますよね(笑)。それで『実はテレビ番組に出るので無人島に2か月ほど行ってました。そのため日焼けしてるんです』と答えると、その女性も驚いていました。それで、その人が関係者に私の写真を見せたところ、関係者が『あれ? この子、今、テレビに出てない? おれ、知ってるよ』という話になりました。ちょうど、サバイバーが放送している時期だったのが良かったのでしょう。『せっかくだから仕事をしたい』ということで、使っていただきました。そのクライアントさんからは今でも仕事をいただいています」。
YouTube(2005年開始)は影も形もなかった時代、テレビの持つ影響力は今と比べ物にならないほど大きかった。そこで毎週、出演していれば、いやでも人の目につく。「サバイバーは視聴率があまり良くなかったと聞いていますが、とはいえゴールデンの数%ですから」と若松氏は当時のテレビの威力をあらためて思うことになった。
この年、鈴鹿8耐、MotoGP世界選手権もてぎでブースMCを務め、2005年には実家の工具店の経理事務を離れてMCとして独立、2006年には個人事務所アリエルを立ち上げた。30代はモータースポーツイベントMCや運営スタッフとして全国を飛び回ることになる。
◾️MCワカを襲った病魔
順調に自身の生き方を進めていた”MCワカ”を病魔が襲ったのは2013年のことであった。「子宮頸がんです。ステージ2で、『初期ではない』と言われました。6月まで仕事をして、そこから半年間、抗がん剤治療などの闘病生活を送りました。その間は外に出ずに家で死んでる、みたいな状態でした」。
当時は北海道から九州まで全国を飛び回る仕事をしていたが、それを途中で打ち切って入院を余儀なくされた。突然の戦線離脱であったため、病院のベッドの上から電話やメールでクライアントと連絡を取る生活を続けた。半年後に復帰も「体がついていかず」(若松氏)、2014年には全国出張の仕事は控えることにした。
38歳で初めて経験する大きな病気は、今後の仕事のあり方を考えるという意味では1つの転機となった。
復帰後の2015年3月、幸田サーキットYRP桐山(愛知県幸田町)にて自身のモータースポーツ事業参画15年、さらに生誕40周年記念事業を記念して、モータースポーツイベント「ワカマツリ」を開催。多くの人にモータースポーツを知ってほしいという考えから実施した。「元世界チャンピオン、日本チャンピオンのライダーなど、一緒に仕事をしていた方々が『それなら協力するよ』と言ってくれました。『ギャラはお支払いできないんですけど』と言っていたのですが(笑)。持っている人脈を駆使したイベントでした」(若松氏)。
プロのライダーによる模擬レースを若松氏が実況するなど、モータースポーツファンが楽しめる内容。手作りイベントらしいのが、サブタイトルに「独身披露宴」とついていた点である。これはワカマツリが決まる前に関係者と話していた時に、結婚式に呼ばれることが多い年齢となり、(このまま自身が結婚しなかったら出したご祝儀を回収できない)と冗談めいた話となり、それなら「独身披露宴をしよう」という軽口から始まったことに由来する。その冗談のような話が高じて(ただの独身披露宴では面白くないからモータースポーツイベントに)と発展していったとのこと。
そうした経緯はどうあれ、大学を卒業後、何のコネクションもないままモータースポーツの世界に関わり、途中でがん治療のため半年間、仕事を離れながらも、自身の名前を冠した単独イベントを開催するまでになった。徒手空拳のスタートから掴んだ一つのゴールと言えるのかもしれない。
このワカマツリは2025年6月14日に10年ぶりに開催された。その様子は業界のウェブサイトを通じてYahoo!などのポータルサイトにも掲載された(AUTO MESSE WEB・女子アナが主催するモータースポーツイベント!幸田サーキットが笑顔に包まれた)。
◾️保育士資格取得後ジョージアへ
第1回のワカマツリが開催された2015年の秋、以前から勉強を続けていた子育て支援活動に乗り出す。翌2016年には保育士試験に合格して保育士登録を行い、さらに病児保育、認定ベビーシッターと1年で3つの資格を取得した。この資格取得には、かつてのサバイバーのメンバーが関係している。
「私、今でも渋谷美奈(番組当時19歳)と仲良しなんです。美奈がある時、『保育士の資格を取るために仕事をやめて専門学校に行くことにした』と言ったんです。彼女が言うには保育士の試験は難しいので、専門学校に行って資格を取るとのことでした。それを聞いた時に、私は『保育士って専門学校に行かなくても資格が取れるの?』と聞くと『試験に受かれば取れるよ』と言われました。私は子宮頸がんの治療をしていた時で、もう子育てのない人生を考えていましたから、その分、時間があると思いました。子育てをしている人たちの代わりに子育てをしてあげられると。試験に合格すれば保育士になれるのならと、勉強を始めました」。
2013年に闘病生活を始めた時に勉強も始めようとテキストを取り寄せたものの、抗がん剤治療の厳しさにテキストを開くことすらできなかった。しかし、資格取得への思いは強く、2014年以後も勉強を続けて2016年に合格。2014年はまだ仕事をセーブしていた時期で、その時に余った時間を勉強に充てた。もともと大学時代に教育実習に行き、中学・高校の国語の教師の免許を有していたように、子供を育てることに興味があったことも資格取得の原動力になっている。
様々な仕事をこなしていた2022年4月には、全ての仕事を1年間休んで東欧のジョージアに渡った。これは2018年から始めたライブ配信の事業で知り合った友人が開いたバーの運営を頼まれたものである。現地の日本人や日本好きの人々が集まる「インターナショナル・コミュニケーション・バーみたいな」(若松氏)ものであったという。当時、コロナ禍直後でMCの仕事は少なく、また、ベビーシッターの仕事も年度末で一区切りつけられる状態であったために1年間の約束でバーの運営に携わった。
◾️消えたテレビへの憧れ
サバイバーの放送から四半世紀近くの時間が経過し、今では「がんサバイバーです」と冗談ぽく笑うが、若松氏にとってサバイバーはどのようなものであったのか。「特に人生観が変わったとか、そういうことはありません」と飄々と語る。あえて、考えが変わったとすれば、テレビへの憧れがなくなったことだという。制作サイドのトップの傲慢さを間近で見た経験が、それまでの考えを一変させたとする。
「(一部の制作者は)俺たちが世界を動かしている、みたいな感じでした。私たちはコマ扱い、『あいつら、コマだから』みたいなことを言った人がいるということも聞きました。それを聞いた時に『あの人、言いそうだよね』と思いました(笑)。もちろん、優しい人もいましたが、あの業界には魔物が棲んでいる感じがします。高学歴を鼻にかけたり、下の者に暴力を振るったりというのを見せられると『ここは、人の心を持っていたらやっていけないのか』と思うぐらいでした」。
ジョージアから帰国した2023年からは、現在も行っているハートFMでのパーソナリティも開始した。40代が終わろうとする時期に新たな挑戦を始めるのは、前向きに生きる若松氏らしい。「現場でMCをやっていましたが、ラジオでは初めてです。以前からメディアで話せればいいなとは思っていました。モータースポーツの世界に関わった時から、何かを伝える、伝えたい、みたいな思いが強くあって、それは今も同じです。今も、何かを伝える人でありたいと思っています。自分が伝えたいものが少しでも聴いている人に伝わればという思いでマイクに向かっています」と話す。
20代後半、華やかな世界とその裏側を見た経験は、メディアの原点に身を置くことを後押ししているのかもしれない。サバイバーを夢中で見ていた筆者のような人間には、出場者の番組への冷静な思いを聞くと、がっかりさせられる面もあるが、それが人生なのかもしれない。
サバイバーの後、モータースポーツの世界に身を置き、1年後はどうなっているかわからないフリーランスとして生き続け、ステージ2と宣告されたがんの治療、子育て支援のための資格取得、東欧のバーの経営と激動の人生を歩んできた若松氏にとっては、多くの視聴者に影響を与えたサバイバーも人生の1つの通過点に過ぎないのであろう。
パラオでの日々、カメラの前で残した言葉は「素晴らしい経験でしたね」であった。その時の真意を聞くと「それはそうです。無人島に行って2か月も生活するなんて、普通の人生ではあり得ないことで、今でも素晴らしい経験だと思っています」と話す。1つの通過点であるが、忘れ難い通過点というのが若松氏にとっての評価と言えるように思う。
◾️美しき路傍の花
1時間を超えるインタビューの中で、筆者が忘れられないシーンがある。第4回でも紹介した若松氏に、自身が追放審議会で追放され、涙ながらに語る場面を見ていただいた時のことである(参照・23年後のサバイバー 若松泰恵(4) 友情の舞台裏)。
「めっちゃ覚えてる、と思いました。このインタビューを受けようと決めた時に『昔のこと、そんなに覚えてない』と思ったし、最近はそれこそ昨日のことも覚えてない場合もありますが、この時の経験は印象的だったせいか、23年経ってもすごく覚えています。色々と聞かれて、もちろん忘れていることもあるのでしょうが、それでもあの頃のことを思い出せるって、すごいなと思いました」。
敷かれたレールのない人生を歩き続ける若松氏にとって、ふと振り返った23年前の記憶は今でも鮮やかな色を保つ路傍の花のようなものであったのかもしれない。
(おわり)
23年後のサバイバー 若松泰恵(1)始まりは扁桃腺へ戻る








