”ごきげんよう” 23年後のサバイバー 平井琢(4)

松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

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2002年に放送され、今でも根強い人気を誇る「サバイバー」(TBS系)に出場した平井琢氏(49)の連載の最終回をお届けする。番組出演当時26歳だった若者は2025年の今は埼玉県長瀞町でアウトドアスポーツを目的とするツアー企画、運営などを手掛ける会社を経営するとともに、同町観光協会副会長を務めている。多忙な日々を送る社長にとって、23年前のサバイバーとは何だったのか。
◾️2012年にアムスハウス&フレンズ設立
サバイバーが2002年4月に収録が終了して帰国後は仕事に復帰する。繁忙期を中心に、ラフティングのガイドとして雇ってくれる現場があれば出向き、長野県白馬村や北海道十勝地方など、全国各地を回った。サバイバー放送後、しばらくは修学旅行でラフティングに来た学生などから「リーダー!」と声をかけられていたという。
その後は長瀞町でパソナの先輩社員が立ち上げた会社に戻り、ラフティングのガイドを続けた。30代半ばになると独立を考えるようになり、2012年3月に株式会社アムスハウス(商号・アムスハウス&フレンズ)を立ち上げる。
「これも偶然が重なったのですが、もう、やめるという会社があり、使用していた機材を安く譲っていただけることになりました。それで自己資金と借入を合わせてスタートしました。2年ぐらいは自分の給料が出ないような状態が続きましたが、3年目ぐらいから何とかなったという感じです」。
このアムスハウス(Amshouse)という言葉はジャマイカの言語であるパトワ語の「掘立て小屋」に由来するという。同社HPには以下の説明が掲載されている。
「広い野原に立つ掘っ立て小屋のような場所があれば、そこに集まる仲間たちと一緒に、ワクワクするような悪巧みや冒険ができる―そんな「秘密基地」を作りたいという思いを込めて、【アムスハウス】という名前をつけました。まるで幼い頃、仲間が集まって自由に遊び、何か新しいことを企てたあの頃の感覚を大人になった今でも取り戻したい、そんな夢のある場所を作りたかったのです。」(同社HP・ご挨拶 から)
ラフティングというアウトドアスポーツを扱う会社としての方向性が示されていると同時に、そのコンセプトに「サバイバー」に通ずる部分が感じられるのは興味深い。
◾️地域貢献・業界への貢献の思い
そもそも平井氏は、パソナ時代の先輩が始めた会社の立ち上げに関わったことから長瀞で働き始めた(”ごきげんよう” 23年後のサバイバー 平井琢(1)参照)。たまたま働き始めた長瀞であるが、ラフティングに関して「安全第一」 を考える上では絶好のフィールドであったことから、同地に落ち着くこととなった。
2014年に結婚し、現在は2児の父。長瀞町に居を構え、長瀞ラフティング業者協議会の会長職も2020年まで通算で6年就いた。現在は同町の観光協会副会長も務めている。リスクマネジメントの講演で呼ばれることも少なくない。
30代後半から業界や地域への貢献を意識した生活にシフトしていった。以前は「サバイバーに始まって海外に行きたいとか、フラフラしていた」(平井氏)ものが、地域に根付いた活動を始めた理由は2つあるという。
「昔は、ただ好きなことをやっていましたが、起業したことと家族を持ったことで、そこに付随することにも目を向けないといけないというのを感じるようになりました。結婚して家族をもって自分が本当に社会の一員になったという意識が芽生えました。お金を稼いで家族を養うだけではなく、自分の子供が行っている学校など、地域社会はものすごく大事だと思うようになりました」。
起業が36歳、結婚が38歳。サバイバーから10年の月日を経て、ベケウのリーダーは地域のリーダーへと変わっていったということであろう。もともと、頼まれたら嫌と言えない性格。観光協会の理事から始まり、さまざまな役職を頼まれては引き受けてきた。そのことで業界や地域のことがより理解できるようになり、貢献への意識も高めてきた。
「色々な役職を経験するうちに、地域社会の仕組みをブラッシュアップしたり、スムーズに世代交代をしたり、という役割は僕たちがしなければいけないと感じるようになりました。それをすることが一番の地域貢献であり、課せられた社会的責任と感じています」。
◾️点にとどめず線に繋がるチャレンジを
サバイバーのメンバーとは今も交流がある。特に交流が多いのが巧みな戦術でゲームメイクして番組を盛り上げた小野郷司氏(当時32歳、会社経営)で、家族ぐるみの付き合いになっている。平井氏の夫人はサバイバーをリアルタイムで視聴していなかったため、小野氏と初めて会うことになった時に、録画したものを見せて「小野さんについて予習」(平井氏)してから、会わせたとのこと。
冷徹なゲームメーカーの小野氏は番組内では「悪魔」と呼ばれるなどヒールと言っていい役回りであったが、実際は「すごくいい人」(平井氏)で、そうした異業種の人と今でも繋がっていられるのはサバイバーに出場したからこそという。
平井氏にサバイバーで得たものは何かを問うと、今でも付き合いのある仲間の存在とともに、現在の生活に繋がる出発点であることを強調する。「(サバイバーで)得たものは、物事を俯瞰することの重要性です。瞬間だけで物事を捉えて導き出す判断では、あまりうまくいかないことを最初に実感したのがサバイバーでした。今、レスキューの講習などで『様々な視点から物事を見ましょう』と言っています。視点取得という言葉を使っていますが、自分の中で、その始まりはサバイバーにあったように思います」と言う。それが今の会社経営やそれ以外の講習などで役に立っているという認識である。
昨日の敵と今日の友が頻繁に入れ替わるような状況で、時に協力しながらも最終的には互いを追放し合う人間関係の中で1か月近くモマれれば、物の見方が変わって当然。最終的な優勝というゴールから逆算して、今、何を為すべきかを考える思考は嫌でも身に付くのかもしれない。
パラオの無人島で16人が共同生活をしながら戦いを続けてから23年。26歳だった平井氏はまもなく50歳を迎える。番組当時に生まれた子供が、出場時の平井氏の年齢に達しようかという年月を経た今、現代の若者に伝えたいことを聞いた。
「やりたいことにチャレンジしつつ、チャレンジの先をイメージすることが大事だと思います。僕は失敗してきた人間だと思っています。でも、失敗してもチャレンジが次に生かされればそれでいいと思います。チャレンジを点にしないで、線にする作業が大事ではないでしょうか。若松(泰恵)さん(当時27歳、自営業手伝い)は、その先のステップとしてサバイバーにチャレンジしたのでしょう。僕は先をイメージせずにサバイバーにチャレンジしましたが、結果として、そこから先に繋げました。どういう形にせよ点にとどめず、線にすることが大事なことと思います」。
2025年の長瀞と2002年のパラオの無人島は、平井氏の中で確実に繋がっている。
(おわり)
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