”ごきげんよう” 23年後のサバイバー 平井琢(3)

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。

 「サバイバー」(2002年、TBS系)に出場した平井琢氏(49、当時26歳)の連載の第3回をお届けする。同氏が率いたチーム”ベケウ”は追放者4人を出し、残った4人で6人の”デレブ”と合流した。平井氏は持ち前の運動能力で投票免除(追放を逃れる権利を争う)ゲームを制して勝負強さを発揮する。しかし、思わぬアクシデントがきっかけとなり追放されることとなった。

◾️戦意喪失していた?若手2人

陪審員6人が集合(平井氏提供)

 合流したチームは10人で構成され、平井氏のベケウは4人という少数派であった。その少数派のリーダーで、しかも運動能力が高い平井氏はマジョリティであるデレブから警戒され、ターゲットにされる存在であった。

 「数の原理で言えば普通に勝てません。それと同じベケウの渋谷(美奈)さん(当時19歳、短大生)と高波(邦行)君(当時23歳、プロボクサー志望)が急に『帰りたい』と言い出して戦意を喪失しているように見えたので、『これはまずいぞ』という思いがありました。もしかすると(デレブのリーダーの)小野(郷司)さん(当時32歳、会社経営)や松尾(純子)さん(当時36歳、レストランプロデューサー)に掌握されていたのかもしれません。それなら(先に追放した)平川(和恵)さん(当時31歳、主婦)やゲッチ(石毛智子さん、当時25歳、帰国子女)を残した方が良かったのかなと思いました」。

 その厳しい状況で勝ち残りを狙うには、ゲームを制して我が身の安全を確保した上で多数派の分裂を狙うしかない。

 「合流して個人戦になってもゲームで勝ち続ければという思いはありましたし、それしかないと思っていました」と振り返る。その上で、「合流後は相手チームも結構、内紛が始まりそうな雰囲気がありましたから、少し勝ち続けて僕を落とせない状況が続けば、風向きが変わるかなと考えました」と自分なりの戦略を明かした。

 実際、合流後に平井氏はゲームを2連勝する。戦意を喪失していたように見えた高波氏は最初の追放者となったが、追放決定後、メンバーに話しかける時には笑顔で感謝の言葉を述べた。その様子は画面越しに見た限りでは敗退を悔しがる様子はなく、言われるように戦意を喪失していたのかもしれない。

 続いて渋谷氏がドクターストップで島から離れ、デレブ6人に対してベケウは若松泰恵氏(当時27歳、自営業手伝い)との2人だけになってしまう。

◾️幻に終わった3人連合

 パラオの無人島での生活から20年以上の月日が流れたが、当時の記憶は鮮明に残っているようである。

 「僕たち(ベケウ)がしっかりと固まって、あちらから1人引き入れていれば勝ち筋はあったと思います。でも、僕たちにはそこまでの団結力がありませんでした。若い2人(高波氏と渋谷氏)は帰りたがっていたし、若松さんは1人で戦うタイプですから」。

 ベケウの2人が追放されて残り8人になった時点で、デレブの吉野大輔氏(当時30歳、元僧侶)からアプローチを受けたが、平井氏は拒絶した。仮に吉野氏と手を結べば、2対6の不利な構図は3対5となり、さらに小野氏との関係があまり良くなかった松尾氏を引き込めば形勢逆転の芽も見えたが、その場にいた若松氏が吉野氏に拒否反応を示し、平井氏も同様に拒絶したことで3人の連合は幻に終わる。

 「そこは僕の未熟さです。実は小野さんから『吉野はもう壊れてるから、話を聞かない方がいいよ』とよく言われていました。それに洗脳されたわけではないのですが、本当に吉野さんが普通の状態ではないように見えました。そこはやはり小野さんがすごかったということなのでしょう」。

◾️サバイバーメンバーによる撮影ボイコット

長瀞の岩畳に立つ平井氏(撮影・松田隆)

 平井氏の追放は思わぬ形でやってくる。きっかけは25日目、渋谷氏がドクターストップで失格したことであった。平井氏によると、以下のような経緯であった。

 渋谷氏のドクターストップの原因は栄養失調による胃腸炎であり、残されたメンバーの間で不満が高まった。

 そもそも出演時の契約書にはヘルスチェックを受けるという項目が盛り込まれていた。しかし、実際に行われたチェックは形式的なものにすぎず契約が十分に履行されていないという思いが、メンバー間で広まっていた。各々の体調も十分ではないことから、残っていた8人は撮影ボイコットという強硬手段に出る。

 これには撮影スタッフも驚き、いったん撮影を中断してパラオ諸島の病院にメンバーを連れて行き、健康診断をすることとなった。メンバーはこの日はゲームではないのだから、食事を出してほしいと要求し、交渉の結果、一食だけ提供されることになった。

 「栄養士もついていませんでしたから、(栄養失調気味のメンバーに対して)いきなり(高カロリーの)中華料理が出されました。油っぽい料理をみんなで貪るように食べました。その結果、僕は胃けいれんを起こして救急車で病院に搬送されました。他の7人はヘルスチェックの翌日に島に戻ったのに、僕は搬送先で入院です。病院で太い注射を打たれ、気がついたら24時間後でした。『ああ、終わったな』と思い、『失格ですよね』とスタッフに聞きました」。

◾️向いた追放の矛先

 渋谷氏がドクターストップを受けた時に、テレビ画面ではルールが表示されている。それは「病気・ケガの場合、メディカルチェックを受け、12時間以内に完治しなかったり、ドクターストップになると、失格」というものであった。

 発病から24時間前後経過していた平井氏が失格と思ったのも無理からぬところ。ただ、このルールもプレー続行中の病気・ケガの場合は12時間以内に戻らなくてはいけないとの考えでつくられたものと思われる。プレー以外の時間が設けられることも、まして、その時間内に病人・怪我人が出ることなど想定していなかったことは容易に想像がつく。

 健康診断実施時はゲームではなく、実際に食事が提供されている。その時点で発症した病気による一時的な離脱に、プレー中のルールを適用するのは疑問が残る。結果的に平井氏は他のメンバーから1日遅れて島に戻り、投票免除ゲームへの参加を許される。

 「スタッフからは『健康診断中の出来事なので、ノーカウントにします』とは言われました。でも、島に戻ると、みんなの態度がよそよそしく何か打ち合わせができているような印象はありました。小野さんともすごく仲がよかったのですが、(矛先は)『若松さんではなく、僕だな』というのは感じました。だから(投票免除)ゲームを勝つしかないという思いは、すごく強かったです」。

 その時のゲームは海上に設けられた板の上をヤシの実を持ちながら、いかに速くゴールできるかを競うものであった。そこでも平井氏は好タイムをマークして投票免除の証を手にしたかと思われたが、平井氏のタイムを2秒上回った者がいた。それが最終的な優勝者・蓑島恵利氏(当時28歳、ダイビングインストラクター)であった。

◾️平井氏の別れの言葉

 こうして平井氏は生き残りをかけたゲームで敗れ、追放されることになる。追放審議会では8票中5票、吉野氏以外のデレブの票が集中した。「何か色々決まったな」という思いは、当たっていたようである。

 投票者のコメントが番組内で紹介されたが、以下のように、皆が同じ理由を挙げていた。

「ゲームが強いので、今落としておかないと」(小野)、「最大の強敵」(中島)、「ゲームに強すぎる」(松尾)、「圧倒的な強さを見せた人を選んだ」(蓑島)、「自分が生き残るためには仕方がない」(黒岩)

 個人戦でゲーム2連勝、3度目も2秒差の2位と他者を圧倒する実力が仇となったのは皮肉としか言いようがないが、それもサバイバーの面白さの1つ。嫌われたり、戦力にならなかったり、といったネガティブな理由ではなく、リスペクトされるあまり追放されるのは、名誉ある去り方と言える。 

サバイバーから23年、現在の平井氏(撮影・松田隆)

 最後に皆に語りかけた言葉は印象的であった。

 「本当に楽しかったです、ここにいて。すごいみんないい人で、本当にもっとみんなと一緒にいたかったのが本音で、ホント楽しかったです。だから、いつ帰ってもいいなと思っていたんですけど、ここで帰るのはちょっと悔しいですね。僕は陪審員になりますんで、最後の一人をこの目でしっかりと見届けて、選定していきたいと思います。ありがとうございました」。

 戦いが終われば、そこに敵味方はないーー中学、高校、大学とラグビーに打ち込んだ平井氏には、ノーサイドの精神が染み付いていたのであろう。

 23年前の発言に対する現在の思いを聞くと「若い頃の等身大の自分だったと思います。自分を良く見せたいというのがありつつも、自分らしさを表現していた…そんな感じですかね」と、笑顔を交えつつ振り返った。

”ごきげんよう” 23年後のサバイバー 平井琢(4)へ続く

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