明治の写真100年以上前の日本の子供の姿

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

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青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。
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 一枚の写真を紹介しよう。僕の祖母が幼い時に撮影されたもので、1904年(明治37)頃、今から100年以上も前のものである。歴史的資料と言っていい家族写真である。

■日露戦争の頃 京橋で撮影された古写真

1904年頃、東京・京橋で撮影した家族写真

 写真は僕の母方の祖母の兄弟姉妹を撮影したものである。5人の中央にいる一番小さい女の子が僕の祖母。1902年生まれで、見た目2、3歳ぐらいということから撮影時期は1904年もしくは1905年と推定できる。大日本帝国がロシアと戦っていた(日露戦争)時期である。

 麦わら帽子を持っているから、おそらく夏に撮影したものであろう。当時、祖母の一家(中里姓)は京橋に住んでおり、曾祖父は日本橋の近くで工務店を営んでいたらしい。

 今から100 年以上前は「写真を撮ると魂が抜かれる」という言い伝えのようなものがあった。そのため、あまり写真を撮る風習はなかったそうだが、僕の母が祖母から聞いたところでは、曾祖父が「魂を抜かれるなんて、そんなバカなことがあるか。おい、お前たち、今日は写真を撮るぞ」と言って撮影したそうである。

 そのショットを100年以上経って子孫がパソコン上で見ているとは、曾祖父本人も子供達も想像すらしなかったであろう。

■昭和は遠く、明治は歴史の世界

 祖母は19歳の時に関東大震災に遭うが、幸運にも生き延びた。宮内省(現宮内庁)勤務だった祖父と結婚し、祖父が南満州鉄道勤務となったのを機に満州の大連に渡る。

 祖母の弟(右の乳児)は、後に憲兵となり爾濱(ハルビン)に赴任した。僕の家には広州市での写真もあるから、中国大陸をあちこち飛び回っていたのではないか。聞いた話では中尉で終戦を迎えたが、これも相当幸運であるが、終戦の前に内地に戻っていた。終戦時にハルビンにいれば、確実にシベリア抑留となっていたであろう。僕の記憶では1976年(昭和51)まで存命だった。

 右の長兄は戦争中も東京にいたそうで、東京大空襲でも生き延びたらしい。戦後、満州から引き揚げてきた祖母が会いに行ったのを母が記憶しているが、その後は不明である。

 祖母の2人の姉については全く情報がない。身内を褒めるのもどうかと思うが、なかなかの美形。きっと幸せな結婚をしたのではないかと想像している。

 明治の写真を見ていると、僕につながるルーツを見る思い。昭和は遠くになったが、明治になると、もう完全に歴史の世界である。

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