被災”一つ星シェフ” タッグで届けた炊き出し1万食

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。

 ミシュラン一つ星の日本料理店「一本杉 川嶋」(石川県七尾市)の川嶋亨店主(39)の呼びかけで集まった料理人らが能登半島地震の被災者に手作りの料理を地震翌日の2日から21日まで約3週間、約1万食を届けた。余震が続く中、プロが作った料理を避難所に届け、被災者を勇気づけている。自身も大きな被害を受けながら地域のため、他の被災者のために汗を流した川嶋氏に、その思いを聞いた。

◾️料理人らが集合「チーム七尾パトリア」

チーム七尾パトリア、前列左から4人目が川嶋氏(川嶋亨氏提供)

 川嶋氏は地震の翌日の1月2日には被災者への炊き出しの実施に動き始めた。仲間の料理人らに声をかけ、およそ25人の「チーム七尾パトリア」を結成。七尾市の駅前にある複合施設「パトリア」に集い、生産者などから提供してもらった食材を料理して21日まで避難所に届けた。

 大きな被害を受け、先行きの見えない避難生活をする人々にとっては、川嶋氏らミシュランシェフ2人を含む一流の料理人が作った食事は心が休まる瞬間なのであろう。川嶋氏は「避難所も最初のうちはカップラーメンと冷たいおにぎりばかりで、被災者の方はまともな料理を食べていないという状況でした。そういう所に料理人がつくった料理を持って行った時は、涙する方も多数いらっしゃいました」と、その反応を語る。

被災者からの感謝のメッセージが並ぶ(川嶋亨氏提供)

 ただ、空腹を解消するためだけの食事ではない。入手できる食材を活用して不自由な生活の中で食べることを楽しめるように工夫する。そのために配達を兼ねて避難所に足を運び、被災者がどのような環境で、何を望んでいるのかを直接聞き、代表者と意見を交わすこともあった。避難所には高齢者が多いため塩分を控えめにし、健康面に配慮して「野菜をたっぷり」(川嶋氏)の料理を作ることも心がけたという。

 「たとえば、魚の温かい料理が食べたいという要望があった時は、かぶら(かぶ)とサーモンのクリームシチューをつくりました。かぶらは給食に出す予定だったものでしたが、(地震で届けられなくなり)廃棄するなら、ということでいただいたものです。サーモンは魚屋さんが冷凍のサーモンがたくさんあるということでしたのでお分けいただいて、温かい料理にして届けました。」

 被災者の要望を聞き、被災者に「寄り添う」(川嶋氏)姿勢を貫く。

「『避難所にいると日にちが分からなくなる』という声がありましたから、1月7日は七草風あんかけチャーハンを届け、今日は七草の日だということを感じてもらうようにしました。料理を通して楽しんでいただく、笑顔になっていただけるようなことを考えて献立を立てています。」

 避難所では、配送するメンバーに被災者からの感謝の言葉、メッセージが目に付く場所に貼られている。「ちょーちょーおいしかったです。おなかも心もまんぞく まんぞく またがんばるゾー」「皆さんの助けに感謝して、勇気をいただいて、気持ちを明るくもって、がんばります! 今日もおいしかったです!」

 川嶋氏らメンバーの細やかな心配りが、今なお避難所暮らしの被災者を勇気付けていることは想像に難くない。

◾️松田聖子に米米CLUB 気分を上げて

 石川県七尾市の出身の川嶋氏は料理の専門学校を卒業後、大阪の料理店などで修業を重ね、2020年7月に七尾市の一本杉通りに日本料理店「一本杉 川嶋」をオープンした。店名は、祖父母の家の近くにあり自身もなじみがある「一本杉通り」に由来する。かつて活気のあった一本杉通りを食の力で取り戻したいとの思いからの命名。2021年5月には「ミシュランガイド北陸2021特別版」で一つ星を獲得し、開店から1年足らずで予約困難店となった。2022年には石川県の料理人仲間と「NOTOFUE(ノトフュー)」という団体を設立し、生産者と連携してさまざまな問題に取り組み始めた。

 その矢先の大地震である。自宅も店舗も大きく傾き、居住(使用)できなくなった。現在は輪島から避難してきた姉家族と共に七尾市内にある実家に身を寄せている。自身も被災者でありながら被災者救援を呼びかけ、料理人はもちろん、家庭の主婦、サラリーマン、自営業者などが集まり、地震翌日の1月2日には炊き出しを始めるスピード感。

 「勝手に体が動き始めていたという感じでしょうか。今後、炊き出しは必ず必要になるというのが分かっていましたし、過去の大きな震災でも料理人は必ず炊き出しに行っています。料理人としてできることは料理しかないと思いましたから」と、直ちに活動に入った理由を説明する。

 川嶋氏は地震の前から街づくりの集まりに顔を出し、地元への貢献を意識しながら店舗を運営していた。2022年11月には食のフェスタ「うますぎ一本杉」を開催し、1万人以上の人が訪れるイベントとしている。地元への貢献を続けていたからこそ、地震直後に仲間と連絡を取った時に、まず、地元に何ができるかという話になるのは当然だったのかもしれない。「仲間から『今後は炊き出しが必要になるよね』という声を聞かされ、自然な流れから始まったと言えます。」と振り返る。

 調理場のパトリアでは音楽をかけて気分を盛り上げている。年齢層に合わせて「松田聖子をかけたり、この前は浪漫飛行(1990年、米米CLUB)をかけました」と言う。能登半島では未曾有の大災害の前には人々の思いも暗くなりがちであるが、(人助けをするメンバーが暗くなっていては笑顔を届けられない)といった思いがあるのかもしれない。

◾️本当の被災者支援とは何か

 「一本杉 川嶋」は建物の一部が崩れ落ち、応急危険度判定で「危険」の赤い張り紙が貼られた。万年筆を売っていた古い店舗を改装してオープンしただけに再使用へのハードルは高く、再開までに1年以上はかかると見られる。人口5万人にも満たない地方都市でミシュランの一つ星の店舗は街のブランドイメージを高める存在であり、早期の再開を求める声は起きてくることが予想される。

 川嶋氏も再開には前向きで「自惚れかもしれませんが、一本杉通りに『一本杉 川嶋』があることを、皆さん、希望になると言ってくださっていました。今回の震災後に『一本杉 川嶋』が、より希望になっていくと思いますので、絶対にウチの店の灯火は消してはいけないと思います。それどころか、もっともっと灯火を強くするぐらいに頑張っていかないといけないと感じています」と前向きに語る。

 ミシュランの一つ星を開店から1年以内に獲得した高い技術を持つ川嶋氏であれば、東京や大阪で開店することも可能であったはず。実際に修業をしていた大阪で開店を勧める声や、自身も大阪でという考えもあったが、能登への思いから七尾市に戻ることを決めた。

 その結果が開店の2年半後に被災、外部の人からは「大阪で開店していれば被災せずにすんだのに、運が悪かったね」という声も聞こえてきそうである。川嶋氏も地元に戻る選択に、ある種、運命めいたものを感じるという。

 「こちらに戻る時には相当な覚悟をもって帰ってきました。2011年に能登里山里海が世界農業遺産に指定され、今後、能登はどんどん良くなっていくと思っていましたが、一向に良くなりません。そこで自分が帰ることで微力ながら能登に貢献できるのではないかと思いました。そのため料理を作るだけではなく、街づくりの集まりにも参加するようにしました。それで今回の震災ですから、自分自身が試練を与えられている気分です。」

 (ツイていない)(何という不運)ーそんな思いを持っても不思議はないが、川嶋氏は自らの決断に後悔はないという。

 「能登のために帰ってきた、その時の強い覚悟は今も持っていますから、他の所に行く気はありません。この街をよりパワーアップさせる覚悟を持ち、自分だけでなく仲間を巻き込んで前へ進みたいと思っています。街の人が元気にならない限り復興はできません。料理人にできることは料理で人々を笑顔にすることです。僕は料理人として街を復興させることを自分のミッションとしてやっていこうと思っています。」

避難所で被災者と撮影、左から2番目が川嶋氏(川嶋亨氏提供)

 能登半島地震が発生以後、我々は様々な媒体で「被災者のために」というセリフを目にし、耳にした。その多くが再生数アップが目当てのYouTuberであったり、政権批判や自党の宣伝のための政治家であったりにがっかりした人は少なくないのではないか。

 そうした中、現地の大きな被害を受けた被災者が、自らできることを無償で行って他の被災者を支援する、川嶋氏らの行為を見た時に本当の被災者支援とは何かを考えさせられる。何年か後に我々は能登半島の復興を目にするかもしれない。その時に市井の名もなき人々の活躍がどれだけ被災者を救ったか、それが復興にどれだけの大きな影響をもたらしたかをあらためて認識すべきであろう。

◾️心が折れないように

大きな被害が出た七尾市(川嶋亨氏提供)

 避難所へ料理を届けるボランティアは1月21日にいったん、終了した。翌22日、川嶋氏は「一本杉 川嶋」を訪れた。店舗に入るのは地震のあった1日以来で、店内は食器や調理器具、備品が床に散乱し、激しい揺れで壊滅状態になった、そのままの状態をとどめていた。あまりの惨状に放心状態で立ち尽くしたという。店内の様子をfacebookにアップするのをやめようかと思ったが、最終的に2葉の写真を公開した。店の現状を伝えることを決めた理由について、川嶋氏はこう綴っている。

 「今の一本杉川嶋の現状を一部ですが少しずつ記録に残していこうかなと思いました。数年後に見返したときに笑い飛ばせるように、今は出来ることをコツコツ少しずつ頑張るしかない。…まだまだ復興への道のりは険しく長いですが、心が折れないようなんとか踏ん張ります。」

川嶋亨(かわしま・とおる)> 1984年、石川県出身。同県立羽咋工業高校、金城短期大学を卒業後にエコール 辻 大阪の辻日本料理マスターカレッジで料理を学ぶ。その後、大阪や京都の店舗で修業し、2016年に地元の旅館の割烹店の料理長となった。2020年7月、七尾市で日本料理店「一本杉 川嶋」を開店した。

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