明治生まれで存命は日本に何人?最低でも112歳

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。

 世界最高齢とされていた116歳の糸岡富子さんが2024年12月末に亡くなっていたと報じられた。1908年5月生まれの糸岡さんは、日本では数少ない明治生まれ。もはや歴史の1ページとなっている明治生まれは一体、どれほどご存命なのか。

◾️明治生まれの男性はゼロ

写真はイメージ

 報道によると糸岡富子さんは1908年5月23日、大阪市生まれ。30年以上前に兵庫県芦屋市に移り住み、高齢者施設で暮らしていたという。昨年12月29日に施設内で老衰のため死亡した(NHK・兵庫 芦屋在住 “世界最高齢”の女性が死去 116歳)。

 同じ年に生まれた人は、二・二六事件の首謀者の一人である栗原安秀中尉や、作家の南條範夫氏、日本共産党の議長であった宮本顕治氏、歌手のディック・ミネ氏などがいるが、あまりピンと来ない。

 それよりも、最後の将軍・徳川慶喜が存命で、日露戦争が終わって2年、西園寺公望内閣が総辞職して第2次桂太郎内閣が成立した年で、6年後に第一次世界大戦が始まると書けば、いかに遠い昔のことかと思われる。

 明治は1868年から1912年7月30日までの45年。明治生まれの人は2024年12月31日時点で112歳以上であり、今年7月末には113歳以上になる。既に明治生まれの日本人男性は存在しない。2024年3月31日に「国内最後の明治生まれ」である千葉県館山市の薗部儀三郎さんが亡くなり、男性の最高齢は大正2年(1914)生まれの涌井富三郎さんとなった(朝日新聞DIGITAL・男性の国内最高齢、大正2年生まれ110歳に 明治生まれいなくなる)。その涌井さんもその5か月後に亡くなっている(読売新聞オンライン・男性の国内最高齢だった110歳の涌井富三郎さんが死去…新たな最高齢は静岡・磐田市の水野清隆さん)。

 一体、日本には明治生まれの人(女性)はどれだけ存命なのか。一時期、共同通信が取材を試みたものの、「国勢調査を担当する総務省は明治生まれのみの人口は集計しておらず、現状で国内に明治生まれが何人いるのかは分からなかった。」(47NEWS・明治生まれは無料で入れます…でも実際にいるの? 帝国ホテル玄関に新千円札・北里柴三郎の研究所も、「本物」展示にこだわる愛知・明治村の魅力に迫る)とのことであった。

◾️日本で存命の明治生まれは40~80人?

 このように全く手がかりはないが、ニュースを探っていくと断片的にヒントは出てくる。沖縄県では県内に明治生まれは1人しかいないと、2024年9月に伝えられた(朝日新聞デジタル・沖縄の最高齢は112歳、県内唯一の明治生まれ)。鹿児島県は県内最後の明治生まれの女性が2024年7月に亡くなったという(南日本新聞・鹿児島県内最後の明治生まれ・勝末コさん死去 112歳)。

 沖縄県の人口がおよそ147万人。147万人に1人しか明治生まれがいないことから、日本の人口およそ1億2500万人にあてはめると85人になる。また、沖縄と鹿児島の両県の人口はおよそ300万人、それで明治生まれは1人となると42人ほどになる計算。

 このように大雑把に考えると40人から80人程度なのかもしれない。ちなみにYahoo知恵袋では、2024年の時点で800人程度の明治生まれが存在するのではというアンサーがあるが、それだけの数の方が存命なら沖縄と鹿児島で1人しかいないというのは少なすぎるように思う。

◾️日露戦争の頃に撮影された写真

左写真中央が筆者の祖母

 筆者の祖父母は全員明治生まれであった。母方の祖母は1902年生まれで、冒頭の世界最高齢であった糸岡富子さんの6歳上になる。東京・京橋で生まれ育ち、1918年の米騒動についてはよく覚えていて、後年、「近所で『今日はあそこが、昨日はここが襲われた』と話していて、怖かった」と語っていた。東京での騒動は8月12日から17日まで、日比谷公園や浅草、銀座などで発生したとされており(ソシオロゴス17号、東京の米騒動 中筋直哉 ソシオロゴス編集委員会)、16歳の少女には恐ろしい経験だったに違いない。

 東京女子専門学校(現・東京家政大)在学中だった1923年に関東大震災を経験。その日は2学期の始業式で、地震後にすぐに全員帰宅させられたという。死者・行方不明者が10万人を超える大災害の中、幸運にも生き延びることができた。

 その後、宮内省の役人であった祖父と結婚。祖父が鉄道省から南満州鉄道に移ったため、生まれたばかりの筆者の母らを連れて大連に移った。終戦時は大連にある満鉄の官舎に住んでいたためか、敗戦後、すぐに中国国民党の関係者らしき人が来たそうで、「蒋介石総統の写真を部屋に飾れ」と言われたという。

 筆者はその話を高校生の時に聞かされた。「で、飾ったの?」と聞くと、祖母は「飾らないよ。何で蒋介石の写真なんか、憎ったらしい」と答えたのをよく覚えている。

 その祖母が幼い頃に撮った写真が左の集合写真で、中央にいる小さな女の子が祖母である。見た目の年齢からすると1904年か1905年、日露戦争の頃に撮影したものと思われる。

 祖母の右の乳児は筆者の大叔父にあたる人で、帝国陸軍で憲兵となった。右の写真はおそらく満州で撮影したもので、階級章からして少尉の頃である。大尉で終戦を迎え、内地に戻って最後は東北地方に住んでいたと聞く。このように明治生まれの人々の人生は、歴史の教科書に載るようなものであった。

 大叔父は1976年(昭和51)に亡くなり、その2年後の1978年(昭和53)に祖母が他界した。昭和の終わり頃は70代で死ぬことはそれほど珍しくなかった。

 筆者の世代にとっての明治は、子供の頃のおじいさん、おばあさんが生まれ育った時代。近所には元気のいい明治生まれの頑固じいさんが何人かいた。そうした明治生まれの男性は既になく、女性も数えるほどになった。

◾️歴史は人を通じて繋がっていく

 糸岡さんが亡くなられたというニュースを聞いた時に、子供の頃には肌で感じていた明治が消えようとしていることに寂しさをおぼえた。明治生まれの方が1人もいなくなれば、その15年後には大正生まれの方もいなくなる可能性がある。筆者が子供の頃は、まだ江戸時代の生まれの人が全国で数人生きており、「侍のいた時代に生まれたんだ」と歴史の糸が繋がることに興奮したものである。

写真はイメージ

 今の子供たちの中にも「自分が子供の頃は明治、大正生まれの人がまだ生きていた」と将来、子や孫に語る時がくるのかもしれない。同じように昭和の最後、1988年、1989年(1月7日まで)に生まれた人の中には22世紀(2101年)まで生きる人も少しはいるはず。2101年のニュースで、「○○さんは現在113歳です。昭和63年に生まれ、1歳になる前に昭和天皇が崩御されました。日本がアメリカと戦争をしていた昭和という激動の時代に生まれた方が、22世紀の今の日本を見て、どう感じられるのでしょうか」などとレポートされるのかも、と考えると何となく楽しい。

 歴史というのはこうして人を通じて繋がりを感じるものであるように思う。筆者も、祖父母から聞いた明治の話を、後に続く世代に少しでも伝えていければと願っている。

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