防衛省内のインドネシア将軍像が示す友情の証

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石井 孝明🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

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経済・環境ジャーナリスト。慶應義塾大学経済学部卒、時事通信社記者、経済誌フィナンシャルジャパン副編集長、アゴラ研究所の運営するエネルギー問題のサイトGEPRの編集担当を経て、ジャーナリストとエネルギー・経済問題を中心に執筆活動を行う。著書に「京都議定書は実現できるのかーC O2規制社会のゆくえ」(平凡社)、「気分のエコでは救えない」(日刊工業新聞社)など。
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 東京・市ケ谷の防衛省に、インドネシア独立戦争の英雄で、初代国軍司令官であるスディルマン将軍(1916-50)の像がある。同国の独立記念日である毎年8月17日、この像の前でインドネシア大使、日本の防衛大臣が列席し、献花が行われている。2022年11月に亡くなった評論家の加瀬英明氏が、インドネシアとの窓口になり、また献花式の実行を担ってきた。この像の存在があまり知られていないので、ここで紹介してみたい。(元記事は&ENERGY・「残留日本兵2000人が参戦、インドネシア独立戦争での絆」)

◆スディルマン将軍像の由来

2015年の献花式には当時のインドネシア大使、駐在武官が参列(撮影・石井孝明)

 加瀬氏は日本の保守勢力の中心的な存在で、取材をきっかけに事務所を何度も訪問するご縁をいただいた。その深い知性と温かい人柄を偲ぶ。日本の古き良き時代の雰囲気と教育を身につけた教養人だった。ご指導に感謝を抱き、ご冥福を祈る。

 私が参列したのは2015年8月17日の献花式だった。献花は小規模で行われてきたが、この年から加瀬氏の呼びかけで、大規模になった。当時のユスロン・イザ・マヘンドラ駐日インドネシア大使は挨拶した。「みなさんが、わが国の英雄を称えていただいたことは、本当にうれしい。両国には、独立戦争からの深い絆があります」。大使は流暢な日本語でこうあいさつし、大変喜んでいた。スディルマンは同国の英雄で、日本人に讃えられるのは嬉しかったのだろう。

 スディルマンについては、当時は人名に氏族名がない地域があり、彼もそうした場所の出身だったという。インドネシアは、350年にわたってオランダの圧政を受けた。日本軍が1942年に進攻してオランダ軍を追い出した。そして日本が敗戦した2日後の45年8月17日、独立を宣言した。

 ところが、オランダが再び植民地にしようと戻ってきた。これに立ち向かったのが、日本軍政下で編成された郷土防衛義勇軍だった。スディルマンはリーダーとして4年にも及んだ独立戦争を粘り強く戦い、独立を達成した。独立戦争は、インドネシア人10万人の死者を出す凄惨なものだった。

 スディルマンは、49年12月にオランダが撤退したのを見届け、国軍最高司令官になった後で、翌年1月、34歳の若さで結核で亡くなった。彼は日本の侵攻前は学校の教師だったが、その後に義勇軍に入隊した。そこで軍事知識を得たという。軍隊は昔から、向上心のある優秀な若者を集める場だった。彼は日本には感謝の念を常に示していたそうだ。

 推定2000人、記録では903人の元日本兵が「インドネシアのために」と独立戦争に参加し、数百人戦死した。そして100人ほどがインドネシアに、戦後も残留した。日本の歴代首相はインドネシア訪問の際には、27人の日本人兵士を含む独立戦争の戦没者を埋葬する首都ジャカルタ近郊のカリバタ英雄墓地を訪れる。なぜか日本人と独立戦争の関係への言及を、日本のメディアはしない。それが一因なのか、この事実はあまり知られていない。

◆インドネシアの日本への感謝

スディルマン像(撮影・石井孝明)

 スカルノ初代大統領はインドネシアの独立宣言文に「17805」と日付を入れた。戦前の日本で使用していた皇紀を使い、皇紀2605年8月17日の意味だ。彼らは独立を支援してくれた日本に感謝をしていた。

 大東亜戦争では、負け戦や戦場になったこともあって、アジア各国で日本の占領による収奪、現地住民の殺害などの悲しい記録が残る。インドネシアでも、日本の統治で問題はいくつか発生した。敗戦後には独立勢力が各地で日本軍へ武器引渡しを要求し、自らの非武装化を警戒する日本兵と衝突し、双方数百人ほどが亡くなっている。しかしスカルノ、スディルマンからの感謝など、総じてインドネシアとの間で良好な関係が残った。現代に生きる私にとって、喜ばしい結果だ。

 スディルマン将軍の像は2011年1月、インドネシア国防省から日本の防衛省に贈呈された。ちょうど、この時は、外交センスと防衛への関心が皆無の菅直人首相と民主党政権の時だ。像を贈ってもらったのに積極的な反応をせず、窓口になった加瀬氏は残念がり怒っていた。こうしたことに感度の高かった安倍晋三氏が首相だったら、首相案件として反応し、日本とインドネシアの友好を深めるイベントとして活用しただろう。私も残念に思う。

 2015年の献花式で、挨拶をした国際政治学者の藤井厳喜氏は、日本が大東亜戦争で「民族解放の理念」を掲げたことを強調し、「インドネシアが主導し、民族自決を訴え、欧米列強の植民地支配からの独立を宣言した1955年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)と理念がつながる」とあいさつした。

◆東京裁判の欺瞞を示す像の意味

 加瀬氏も「この場所の意味を考えてほしい」と語りかけた。防衛省のある市ケ谷台は、明治7年(1874年)から昭和12年(1937年)まで陸軍士官学校が置かれた。大東亜戦争中には参謀本部と陸軍省があり、戦後は「日本がアジアを侵略した」と断罪した東京裁判が行われた。そうした歴史の舞台だ。

 加瀬氏は「アジア諸国と日本の関係、特にインドネシアの関係は決して侵略ではなかった。この像は両国の絆を確認し、歴史の正確な事実を示す。東京裁判の欺瞞を示す意味がある」と述べた。

 加瀬氏は、父で外交官の加瀬俊一氏(初代国連大使)の思い出を私に語ってくれたことがある。バンドン会議の随員として行った俊一氏は、日本がアジア諸国から大東亜戦争について非難を集めると警戒していたという。ところが、アジア、アフリカ各国の首脳は、日本が有色人種の代わりに、民族解放、白人諸国の不当な植民地主義の打破、人種差別撤廃のためにその戦争で戦ったことを、そろって評価し、讃えてくれたという。特にスカルノ大統領は日本代表団に大変好意的だったという。

 日本は大東亜戦争中の昭和18年(1943年)にアジア諸国の首脳を集め「大東亜会議」を開催した。そしてアジア各国の独立と民族自決を戦争の目的とした。加瀬俊一氏はこの会議の開催に尽力した。そのバンドン会議での経験に、自分の志が報われたと、深く感動したと、生涯繰り返したという。

 加瀬英明氏は独立戦争に参加した日本兵を描く映画「ムルデカ 17805」(01年公開)の製作委員会の代表になった。「ムルデカ」とは独立という意味で、前出の数字「17085」もタイトルに入れられている。

 この撮影は加瀬氏のインドネシアとの関係を使い、軍と政府の全面協力で行われた。200名の兵士が参加し、兵器の貸し出しが許されるなど厚遇された。

 加瀬氏がこの映画製作に情熱をかけたのには理由がある。「インドネシアの人々は、独立の悲願を持っていた。日本は大東亜戦争で自存自衛に加え、そうしたアジア諸国民の思いと共にアジアの独立、人種差別の撤廃という大義のために戦った。消されたこの事実を、多くの人に知らせたかった」と話していた。

◆日本の戦争の意味を伝え続ける

スディルマン像がある防衛省

 大東亜戦争での日本の行動の受け止め方は、日本とアジアの人々それぞれで異なり、批判もあるだろう。また戦争であり、日本の残虐行為、恥ずべき行為もあったかもしれない。

 しかし、日本が欧米の支配を打ち破ったことで、大戦後にアジア諸民族が覚醒し独立したことは、評価するべき事実だ。インドネシアで、独立戦争に参加した日本兵も、アジアの解放という大義を信じて参戦した。

 「日本は悪い」と決めつけるメディアや有識者の偏見で、こうした日本の経験は、なぜか日本で意図的に消されてきた。インドネシアの独立をめぐる日本との協力関係、インドネシアからの感謝も黙殺された。市ケ谷台に立つスディルマン将軍の像は、日本が戦った戦争の知られざる面を伝えている。私は日本の歴史を過度に賛美はしない。しかし、日本の過去の良いことを黙殺し、忘れよう、ひどい場合には歪めようという今の日本の風潮はぜひ変えたい。

 こうした誇るべき歴史と経験を、志ある日本人の間で、大切にしたい。加瀬英明氏が残そうとした歴史の事実も伝えていきたい。

 ※元記事は石井孝明氏のサイト「&ENERGY」に掲載された「残留日本兵2000人が参戦、インドネシア独立戦争での絆」 タイトルをはじめ、一部表現を改めた部分があります。

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