久米宏さん元日に死去 テレビ報道を変えた81歳

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。

 フリーアナウンサーの久米宏さんが2026年の元日に亡くなっていたことがわかった。81歳だった。軽妙な喋りで人気を集め、報道番組をショーアップするなど特筆すべき実績を残した。一方で、リベラルな政治思想が前面に押し出されることもあり、反発を受けることもあった。良くも悪くも話題になることが多かったが、昭和から平成を代表する放送人の1人であったことは間違いない。

◾️テレビ報道のあり方に大きな影響

画像はイメージ(AIで生成)

 久米さんは肺がんのため、元日に死去、告別式は近親者だけで済ませたという(讀賣新聞オンライン・久米宏さん肺がんで死去、81歳…「ニュースステーション」「ザ・ベストテン」)。1967年(昭和42)にTBSに入社し、ラジオ番組などに出演。

 78年(昭和53)開始の歌謡番組「ザ・ベストテン」で黒柳徹子さんと司会を務め、その軽妙な掛け合いで人気を博した。79年(昭和54)に退社してフリーになり、85年(昭和60)からは「ニュースステーション」(テレビ朝日系)のメインキャスターを務めた。「物言う」キャスターの先駆けとなり、お堅いイメージのニュース番組をショー的な手法で親しみやすい内容にするという革新的な手法で日本のテレビ報道のあり方に大きな影響を与えた。このことは、前例にとらわれず、タブーに挑み続ける久米さんでなければできなかったであろうと思われる。

 89年(平成1)にはTBSが「筑紫哲也 NEWS23」を開始。政治的には久米さん以上に過激と言っていい筑紫哲也さん(2008年没)がメインとなった。新聞記者出身の筑紫さんは自由な喋りではテレビ出身の久米さんにはかなわないが、より政治的スタンスをリベラル(ラジカルと言い得るレベル)に傾けることで一定の支持を集めた。

 こうして平日午後10時からは久米さん、同11時からは筑紫さんと、反権力・反自民の報道番組が高視聴率をマークする構造となり、日本の政治の行方に一定の影響を与えた。93年(平成5)にはいわゆる椿事件(テレビ朝日の取締役であった椿貞良氏による偏向報道が疑われた事件)が発生し、久米さんの報道姿勢にも疑問を感じる声が大きくなってきた。

 現在の報道ステーション、news23はそうした流れを受けている印象が強い。YouTubeなどSNSではその報道姿勢に疑問を投げかける投稿が多くなされ、久米さん・筑紫さんの時代から続く手法が21世紀の現代では通用しないことが明らかになっていると言っていい。

◾️久米さん これぞプロの仕事

 筆者が久米さんを最初に意識したのは73年(昭和48)、媒体はTBSラジオである。当時、筆者は中学1年であったが、この頃は朝食はテレビをつけずにラジオをかけて聞いていた。「歌のない歌謡曲」(6:45-7:00)の終盤に登校のために家を出るという生活であったように記憶しているが、その頃、久米さんは「久米宏の朝ですよ~!」という番組を担当していて、当時の記録を見ると午前5時30分から放送していたようである。

 筆者にすれば登校前、朝食をとりながらのリスナーのため、ほとんど聞き流している状況であったが、そのうち、久米さんの話が面白く感じられ、熱心に聴くようになった。何が面白いと感じたのかはもはや記憶にないが、アナウンサーという中立的な立ち位置が求められながら、自分の考えを語り、シャレやジョークを交えて話す部分に魅せられたということであったように思う。

 78年に「ザ・ベストテン」が始まり、司会が久米さんと知った時に、既に高校生になっていた筆者は(子供の頃聴いていた、ラジオの面白いアナウンサーが担当するんだ)と思ったのをよく覚えている。

 「ザ・ベストテン」は久米さんの真骨頂であったように思う。生放送で次々に起きるハプニングに的確に対応し、それを逆に視聴者へのアピールへと変えてしまう手腕。久米さんでなければ番組が成立しなかったのではないかと思う。

 特に印象に残るのが、松田聖子さんが出演した80年(昭和55)11月20日の放送回。この時、松田聖子さんが山本寛斎氏デザインの服装で歌うという企画で、番組内で服を選び、着替えを済ませてから歌うというもの。生放送、しかも最後の1曲でこの企画はとても今の時代ではできないものであった。案の定、松田聖子さんの着替えに時間がかかり、1秒でも早く歌わせたい場面であるが、久米さんが即席のドレッシングルームの前で「早くして」「もう、時間がない」ではなく、「できました? ごめんなさい、焦らせているわけではないんですよ。…ゆっくりやっていいんですよ、ゆっくりね」と声をかけたのである。

 当然、松田聖子さんも時間が押していることはわかっている。その場で司会が「早く!」と声をかけることなど意味はなく、逆の意味の言葉で場をもたせたのである。後日、そのシーンを見て(久米さんはプロ中のプロ)と思ったものである。

 ザ・ベストテンと同時期に「土曜ワイドラジオTOKYO」のキャスターも務めていた。実は筆者は大学生の頃、こちらも聴いていた。土曜日は自動車で登校する機会が多く、車中で久米さんの話を聴いていた。その時代にあっても軽妙なトークは聴取者を楽しませるには十分で、自宅から大学までの1時間以上、番組を聴いていたものである。

◾️徐々に覚えた違和感

 こうした反射神経のよさ、頭の回転の速さなどが報道番組でも活用され、ニュースステーションは革命的なものとなった。そして、人気のある局アナはフリーに転身した方がさまざまな面で恵まれるということを示したのも、久米さんの功績であったように思う。

 もっとも、フリー転身後は、その政治的な信条が表に出過ぎた印象で、特に自民党政権に対する批判が強く、特定の政治団体の影響を受けているのではないかと疑わせるほどの姿勢と感じられた。

 1980年代でいえば、保守派の大御所である中曽根首相への攻撃は度を越しているように感じられた。中曽根氏の後援会がニュースステーションの報道は偏向しているといった理由で一切取材を受け付けず、中継先のカメラが事務所を映し出すと、そのアングルから映せないように大型のバスをカメラの前に移動させるというシーンが流れたのは視る者に強い印象を与えた。

 また、前述の椿事件の際には国会議員の中からは椿氏だけではなく、久米さんも証人喚問に呼ぶべきであるという声が出た。

 筆者自身、メディアの人間となり、報道のあり方を考えさせられることが多くなると、久米さんの報じ方に(これでいいのだろうか)という疑問を覚えるようになった。上記の椿事件で果たした役割はわからないが、自分の中で(そのやり方は間違っている)という思いが支配的になっていったのは事実である。中立・公正・公平というメディアが求められる極めて重要な姿勢が、久米さんにおいては守られていないという思いである。

◾️久米宏さん 安らかに

 筆者と久米さんの考え方に大きな隔たりがあることは疑いない。しかし、そのことで筆者の久米さんに対する評価が一転ネガティブなものになるわけではない。

画像はイメージ(AIで生成)

 筆者が中学生の頃から(アナウンサーって、ここまで聴取者、視聴者を楽しませることができるんだ)と感動させてくれたのは間違いなく久米さんであったし、自らの青春時代を通じて、その声や姿がBGMのように流れていたことは事実である。

 81歳、早すぎる死は残念というしかない。最後は好きなサイダーを一気に飲み干して旅立ったそうである。それはニュースステーションの自身の最終回でビールを飲み干した時のようであったと伝えられている(FNNプライムオンライン・「大好きなサイダーを一気に飲んだあと、旅立ちました」久米宏さん死去で妻・麗子さんがコメント「まるでニュースステーションの最終回」)。

 粋な久米さんらしい最期だったように思う。政治的信条は異なっても、筆者の青春時代を楽しいものにしてくれた感謝の思いは変わらない。

 ありがとう、そして、さようなら。久米宏さん、どうか安らかに。

合掌

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