23年後のサバイバー 若松泰恵(2) 独立系の苦悩

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

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青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。
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 「サバイバー」(2002年、TBS系)に出場、現在はラジオのパーソナリティなどで活躍する若松泰恵氏(50)の連載の第2回をお届けする。16人の出場者に選ばれた若松氏は他の出場者とともに2002年3月、パラオへ向かった。

◾️赤道直下の無人島へ 

パラオでの若松氏、左は平井氏(若松氏提供)

 サバイバーの舞台は、番組では「パラオの無人島」と紹介されている。TBSの社内報によると「誰にも邪魔されずに、四〇日間生活できる無人島を探してくれ」と言われたYディレクターが「ゲメリス島という最高の環境を見つけ出してくれました」(TBS 新・調査情報2002 9-10:creator’s voice サバイバー 安田淳 p61)と記載されている。

 ゲメリス島はNgemelis Islandと思われ、日本での表記はンゲメリス島、ジメリス島、ガムリス島と統一されていない。第二次大戦時の日米の激戦地であるペリリュー島(Peleliu Island)の北西、直線距離で12~15kmほどの場所に浮かぶ、おおむね南緯7度8分、東経134度13分に位置する赤道直下の無人島である。

 サバイバーは16人が8人ずつの2チームに分かれ、さまざまなゲームを行なって負けた方がメンバーの1人を投票で追放していく。総勢10人になった時に両チームが合流し、仲間内でゲームを行なって1人ずつ追放していき、最後に残った2人のうちどちらが真のサバイバーに相応しいかを、追放された3位から8位までの6人の陪審員の投票で決定するという仕組みである。米CBSの人気番組「Survivor」の日本版である。

 ところが、このルールを若松氏は事前に理解できていなかった。米国版サバイバーも視聴したことはなく、「現地に行くまでルールを正確に理解していませんでした。ゲームに勝ったチームが負けたチームのメンバーについて『あの人、強そうだから落とそう』と、投票して落とすものだと思っていました。そもそも自分のチームで投票して自分のチームのメンバーを落とすという感覚がなくて、ロケが始まって他の人にルールの説明を聞いて『えっ!?』という感じでした」。

 当然のように「戦略とかゼロです。何も考えていませんでした。そもそも『無人島に行ける、面白そう』という程度の考えで応募しましたから」(若松氏)と、優勝への道筋を深く考えることなく、現地に乗り込んだのである。

◾️誰とも相談せずに投票 

 若松氏が所属したベケウ(Bekeu=パラオ語で勇者)は、平均年齢26.0歳の若いチームで、リーダーにはリバーガイドの平井琢氏(当時26歳)が選ばれた(参照・”ごきげんよう” 23年後のサバイバー 平井琢(2))。

 チームの中で最初に問題を起こしたのが佐藤徳一氏(当時23歳=無職)であった。支給されたペットボトル1本分の水を早々と飲み切ってしまい、メンバーから少しずつ分けてもらうという甘さ、無計画さが非難の対象となった。さらに、生活に必要なナタを紛失し、それが原因でメンバーと口論になり、高波邦行氏(当時23歳=ボクサー志望)と殴り合いの喧嘩となってしまった。チーム内で孤立しているのは明らかで、追放される最有力候補と目されていた。

ベケウチームの人間関係(作成・松田隆、イラストはAIで生成)

 幸いにも第1回の投票免除ゲームに勝って追放者は出なかったが、3日後の第2回の投票免除ゲームではデレブチームに敗れて追放者を出さなければいけなくなった。ベケウチーム8人が誰に投票し、誰を追放するのか。番組スタート当時は仲間による多数派工作もそれほど活発ではない。事実、若松氏には誰に投票するかという相談は全くなかったという。

 「他の人は話をしていたのか分かりませんが、私は誰とも(第1回の投票での追放者に関して)話していませんでした。あの時はぶーちゃん(佐藤氏)に7票集まると思っていました。『他に落とす人いないでしょ』、『話し合いなどする必要はないでしょ』、と。投票免除ゲームがスポーツ系のため、ぶーちゃんがいたら勝てませんから。勝たないと人がどんどん減っていくので負ける訳にはいきません。そのため、開票時に春日(尚)さん(当時34歳=サラリーマン)に3票集まった時は愕然としました。(何で春日さんに3票入ってるの?)って、すごく思いました」。

 若松氏が愕然としたのは自身の予想と開票結果が大きく乖離していたことだけが理由ではなかった。

 「(ゲームの勝利を考えずに)誰かに帰って欲しいというのであれば私の中では断然、春日さんだったんです。ですから、春日さんに3票集まったのを見た時に『(事前に)言ってよ!』という感じでした。もし、その3人から『春日さんを落とそうと思うからワカも乗って』と言われれば乗ったでしょう」。

 実際は何の相談もないまま投票した若松氏の1票が効いて、佐藤氏が4票で最初の追放者となった。

◾️春日氏への複雑な思い

 番組では放送されなかったが、若松氏は春日氏に対してはいい印象を抱いていなかったという。ことはパラオへの出発時に遡る。そもそも春日氏は他の15人とは別の便で遅れて現地入りした。

 「関係者から、春日さんは成田空港に来る際にパスポートを忘れて飛行機に乗れなかったと聞きました。それが本当かどうか分かりませんが、当時の私はそれを信じていました。そのため、私の中では『この人、やる気あるのか』という感じで見ていたのは事実です。そもそもテレビに出るのは非日常じゃないですか。それを『ただ、フワッときて、フワっと帰るつもりなのかな』と。春日さんはいつも飄々としていたので、『いやいやいや、テレビ番組だぞ、これは』と思っていました。ぶーちゃんも『変わりたい』と言っていたので、撮影のない時間には2人(春日氏と佐藤氏)にパワー注入です。『気合いを入れていくぞ!』という感じで。私も何様なんだという話はありますけど(笑)」。

 もちろん、若松氏も葛藤を抱えていたのは間違いない。最近、当時の日記を読み返したそうで「2人に『私、言い過ぎ?』って聞いたり、自分も完璧に色々こなせてもないのに、キツいこと言ってていいのかな?相手を傷つけてないか凹むこともあるけれど、言い方が加減出来ない。感情むきだし。はぁ~(ため息)』と書いてありました」と内容を説明する。

 もともと若松氏はメディアでの活躍を目指して名古屋から横浜へと出て、日々、活動の場を広げることに腐心してきた。コネとも呼べない関係を頼りに、仕事を取ろうとしてきた若松氏にすれば、積極的に番組を盛り上げようという姿勢が見えない2人にもどかしさを感じたであろうことは容易に想像がつく。出場者の間で番組への温度差が存在したことは確かなようである。

 当時のことを平井氏は「不安や戸惑いから『もう帰りたい』と漏らす人も多かったですね。そんな中でも、『私は残るよ』と力強く言っていたのは、若松さんだけでした」(参照・”ごきげんよう” 23年後のサバイバー 平井琢(2))と証言する。その点を受けて若松氏は以下のように説明した。

 「もともとスポーツのレポーターになろうとしていましたし、業界に憧れもありました。それが鳴かず飛ばずで仕事がなく、地元に帰ってきたわけです。テレビに映るのなら長い時間映った方がいいし、よく見えるように映った方が得です。それを『売名だ』と言う人もいるかもしれませんが、『売名以外に何のメリットがあるの?』と言いたいですね。思い出作りで来ている訳ではありませんから。賞金1000万円を取りに来た人もいるでしょうし、松尾(純子)さん(当時36歳=レストランプロデューサー)のように初代の優勝者になりたいと栄誉・称号を手に入れたい人もいました。そういう目的を持つことが正しいことだと当時の私は思っていました」。

◾️23年後の出場者の関係

 ベケウチームは続く投票免除ゲームにも敗れ、チームとしての2人目の追放者を出さなければいけなくなった。追放審議会もチームで2度目となると、追放者を巡って多数派工作が活発化していく様子は番組から見てとれる。若松氏を除く女性3人が集まって会話を交わすシーンや、平井氏が男女間で溝ができている状況を説明するシーンも流された。極めつけは高波氏で、「戦力的には男3対女3、プラス、ワカ(若松氏)という感じで…」と話す場面が放送された。

 若松氏はこの時、はっきりと男女どちらにも与しない独立系と見られていたようである。実際、この頃のことを振り返り「私の中ではぶーちゃんの次は春日さんでした」と、他のメンバーには相談せずに春日氏に投票したことを明かす。開票の結果は春日氏4票、石毛智子氏(当時25歳=帰国子女)が3票で、1票差で春日氏の追放が決まった。

佐藤氏(右)と一緒に(若松氏提供、2025年撮影)

 2度の投票は共に1票差、そしてどちらにも与しない若松氏の1票が勝敗を分けた。本人は意識がなかったのかもしれないが、結果だけ見れば、完全にキャスティングボートを握る存在となっていた。

 投票から23年、20代・30代だったメンバーは熟年と呼ばれる世代へとなった。ゲームとはいえ、若松氏が追放した形の佐藤氏、春日氏との関係は気になるところである。筆者がそんなことをあれこれ考えていたところ、若松氏からメールが届いた。

 「久しぶりにサバイバーのことを思い出して懐かしくなったのと、ちょうど週末に…出張が重なりましたので、ぶーちゃんこと佐藤くんに連絡をとって、10数年ぶりに会ってきました。…懐かしい話に花が咲きました。」

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23年後のサバイバー 若松泰恵(3) 薄氷踏む日々へ続く 

    "23年後のサバイバー 若松泰恵(2) 独立系の苦悩"に3件のコメントがあります

    1. ぽんぬふ より:

      はじめまして。
      あるネットニュースを検索していたところ、こちらののサイトの過去の記事に辿り着きました。
      その記事における松田さんの鋭い考察に非常に共感し、他の過去の記事も夢中になって読んでいる中で、「最近はどんな記事が書いているんだろう」とトップページを押したところ、まさかのサバイバーの記事が!

      サバイバーは私が高校生のときにリアルタイムで見ていた大好きな番組で、しかも全出場者の中で私が一番大好きな若松さんがつい最近特集されていたのがとても嬉しくて思わずコメントさせていただきました。
      放送は1年でしたが、全シリーズ通して1stシリーズが一番印象に残っています。チーム合流後は若松さんと平井さんを応援していたので2人が追放された時はとても残念でした。エンディングのhitomiの曲も好きでした。
      当時発刊されていた番組の書籍は一通り買いましたが(公式ガイドブック、インサイドストーリー、小説版)、本記事に書かれている当時の裏話は初めて知った内容ばかりです。本当にありがとうございます。
      若松さんの記事の続編も楽しみにしております。
      もし、松田さんが若松さんにまたお会いする機会がございましたら、ファンからコメントがあった旨お伝えいただけますと幸いです。

      本日こちらのサイトに訪れたばかりでまだ未読の記事がたくさんありますので、じっくり拝読したいと思います。今後の活動も微力ながら応援させていただきます。
      拙い長文失礼いたしました。

      1. 松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵 松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵 より:

        コメントをありがとうございます。サバイバーの熱心なファンの方は今でも少なくないようです。僕自身、楽しみに見ていて、登場する人に感情移入していたものです。当時の方にお話をうかがってみると、平井琢さん、若松泰恵さん、テレビで見る通りのいい方です。取材しているうちに仕事を忘れて、サバイバーの一ファンとして話を聞いている瞬間があります。

        ぽんぬふ様は若松さんがごひいきですか。こちら(https://www.jcbasimul.com)の「東海地区・Heart FM」で木曜日午後4時から1時間、番組を担当されていますので、一度お聴きになるのがよろしいかと。僕が取材に訪れた時は、ラストの曲に「flow」(hitomi)をかけてくれました。粋な方です。

        1. ぽんぬふ より:

          ご返信ありがとうございます!
          またラジオの情報もありがとうございます。ぜひ聞いてみます。
          松田さん取材の際にflowをかけてくださるなんて、、、感動です!
          その放送回は神回ですね、リアルタイムで聞きたかったです(笑)

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