中華主義への反動か 日本統治期の建築物評価
葛西 健二🇯🇵 @台北 Taipei🇹🇼
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台湾では日本統治期の建築物が修復保全、再利用されています。また、景観保全活動が建築物の歴史的重要建築物に指定に繋がった例もあります。また近年の修復再建ブームからは「台湾の歴史」を見つめ直そうとする意識の高まりを感じます。
■日本統治期の建築物の修復保全
昨今台湾では日本統治期の建築物を修復保全または再利用する動きが各地で相次いでいます。第二次大戦(太平洋戦争)で戦場にならなかった台湾は、戦前からの建物が多く残り、歴史的建造物の資源に恵まれているという事情があります。
規模の大きなものとして台中市の「台中市役所」があります。1911年台中州台中市役所として建設された当館は、台中市政府によって2016年にリニューアルオープンしました。館内では戦前戦後の台中に関する写真展示が行われ、「昭和沙龍 (昭和カフェ)」と名付けられたレストランでは和風定食やスイーツが提供されています。丸屋根を抱いたバロック様式の建物は格好の撮影スポットとなり、多くの人で賑わっています(台中市政府観光局)。
台南市では、台湾水道の父と称される浜野弥四郎氏によって建設された「台南水道」を3年の歳月をかけ修復、2019年に「水道博物館」として開館しました。館内では浜野弥四郎氏の業績を紹介するコーナーが設けられています。黒瓦と赤煉瓦の建築物群から構成される当園は、平日は校外学習の一環として訪れた学生達で、また週末は多くの家族連れで賑わっています(台南山上花園水道博物館)。
台北市では1937年に建設された「旧大阪商船株式会社台北支店」が修復され、2020年4月「国家攝影文化中心台北館」として開館しました。当建物は国民政府の台湾接収後に公営の台湾航業公司が使用し、その後台湾省公路局に譲渡、以降55年間使用されてきたものです。館内では当建物の歴史的変遷を伝える展示や、台湾の歴史を写真で紹介する企画展などが催されています(國家攝影文化中心)。
■個人経営の病院や民家が有形文化財に
その他台北市では今年4月以降、かつて個人が経営していた病院や当時の民家が、市の「市定古蹟(市の有形文化財)」に相次いで指定されています。2021年4月29日、台北市は「仁安医院」を市定古蹟に指定しました。仁安医院は1927年、当時の先端地区であった大稲埕に開設されました。
仁安医院の初代院長は台湾総督府医学校を卒業した柯謙諒氏で、小児科、歯科や耳鼻科、産婦人科を扱い、特に産婦人科医としての評判が高かったそうです。日本統治期の著名な病院として、当時大稲埕と同じく賑わいを見せていた艋舺地区にある「南朝医院」と並び評される病院でした。台北市政府文化局は3年間の調査を通じ、当医院が歴史的価値を有すると判断しました(自由時報 2021年4月26日及び台北市政府文化局)。
2021年8月30日には、同じく当時の大稲埕に位置する迪化街の町家が市定古蹟に指定されました。この町家は1920年代の「一坎二落一過水」と呼ばれる建築様式によって歴史的価値を有していることが指定された理由です(中国時報 2021年8月30日)。
続く9月1日には、同じく当時の大稲埕、現在の迪化街にある「福生堂医院」が台北市の市定古蹟に指定されました。福生堂医院は大稲埕地区初の女医による産婦人科医院としての歴史的価値、院内には日本語と中国語の医学書や医療器具が大量に保存されていることが市定古蹟指定の理由です(中国時報 2021年9月1日)。
当時最もモダンな地域として栄えた大稲埕には、西洋化した日本の影響から西洋の建築様式が流入、仁安医院や迪化街の町家のようなバロック様式の装飾や折衷主義建築の影響を受けた建物が築かれました。また日本統治下では、台湾総督府(現台湾総統府)や台湾総督府博物館(現国立台湾博物館)のようなビクトリア朝様式やドイツ様式の構造物も建築されました。
■台北帝国大学に近接する昭和町
台北市大安区龍安里(青田街区)は、緑の木々に囲まれた閑静な住宅街です。町内の中心を走る青田街の東西には、2006年に台北市歴史建造物に指定された日本家屋が多数保存されています。
現在の青田街や温州街、永康街一帯は台北帝国大学(1928年開校:現台湾大学)や台北高等学校(1922年開校:現台湾師範大学)に近接することから、大学や高校の教員の居住区として整備されました。昭和初期の区画整備で昭和町と名付けられたこの地域の土地は教員達が立ち上げた「大学住宅利用購買組合」を通じて一括購入され、当時の一般官舎とは異なるいわゆる日本風の庭付き一軒家が建てられました。庭にはマンゴーやガジュマルの樹が植えられていました。
第二次世界大戦終了後、昭和町の家屋は台湾大学の教員宅として使用されました。その後台北市の発展に伴い、老朽化した家屋はマンションやアパートに建て替えられていきます。
私が来台した20世紀末、青田街一帯にある日本家屋は多くが放置されており、適切な保全が為されていると思えない状態のものが多くありました。友人の部屋探しの手伝いで賃貸として出されていた青田街にある1928年建築の日本家屋を実地見学したことがあります。閑静な住宅街にあり格安の家賃、しかも一軒家、友人はかなり気に入っていたのですが、その当時で既に築70年経過、且つ大家から「老朽化で雨漏り有り、また排水状況も難あり、庭の木々も常時手入れが必要」との告知があり、友人はやむを得ず契約を見送りました。
■2002年前後から高まった日本式家屋保存活動
青田街区での日本式家屋の保存活動は、地区の自然環境に対する関心から2002年前後から高まり始めました。2003年7月、台北市で制定された「樹木保護自治条例」に反し、同地区の住民が老樹を伐採し、条例に達反した住民に対しては「樹木の剪定が行き過ぎである」として罰金処分が課されました。
この件を機に同町内では「愛青田救老樹 (青田を愛し老樹を救おう)」という署名活動が行われるなど、地域環境を守ろうとする地区の意識が高まっていきます。そして樹を守るためにはそれが植わっている土地を保存する必要があり、土地の保存のためには日本家屋を残す必要があるという、老樹と日本家屋の「命運共同體 (運命共同体)」の考えが地区内で共有されていきます。
さらに専門家が日本家屋の学術的・歴史的な価値による文化資産指定の可能性を指摘したことで、同地区は2004年台北市文化局に日本家屋群の文化資産への指定を申請、2006年台北市によって青田街区の日本家屋群が「市定古蹟(市の有形文化財)」に指定されました(国立台湾大学建築與城郷研究所及び2016年度学報及び 楊政凱(2020))。
現在青田街区で保全されている日本家屋の一部はカフェ等として利用されており、畳敷きの和室でコーヒーを味わいながらマンゴーやガジュマルの大樹等、緑に覆われた庭園を鑑賞することができます。
青田街区は、そこに住まう人々の景観や自然保護に対する意識が景観と親和的な日本家屋の文化歴史的価値の評価に繋がり、結果「地域」としての保存に至った珍しい例と言えるでしょう。
■「我々の歴史」の背景
台湾で歴史的建造物として保全修復されているのは日本統治期のものだけではありません。清朝統治時代の建築物である台北駅近くの北門や、200年余りの歴史を持つ閩南(中国福建省南部)式建築物の林安泰古厝、さらに遡ってスペイン統治期1628年建設の紅毛城、オランダ統治期1624年建設の安平古堡など、かつて台湾を統治した宗主国の建築物が「台湾の歴史」として修復保全されています。
台湾はスペイン、オランダ、清、日本、そして中華民国に至るまですべて外来者によって統治されてきましたが、台湾の人々にはこれが「台湾の歴史」であり、「我々」を形成する重要な要素なのでしょう。
近年の日本統治期の建築物の修復やリニューアルは、国民党政権時代の中華主義に基づいた歴史観からの反動や、自らの歴史を取り戻そうといった動きなのかもしれません。
台湾へは一度も行ったことがないので、
現地からお送りくださる記事を
いつも楽しく読ませていただいております。
韓国は金泳三政権の時に旧朝鮮総督府を壊してしまいましたが、
台湾はまだ当時の建造物が残っているのですね。
かつて日本国であったという歴史を消し去るのではなく、
いまだに公園で日本語の演歌をカラオケで楽しまれるなど、
韓国の同世代のお年寄りにとってはうらやましい環境だと思います。
日本時代の名残のある場所が、
日本人にとっても台湾へ行く際の観光名所になるといいですね。
くまいぬ 様
コメントをくださりありがとうございます。
台湾は日本時代を含めて 現在まで続く自分達の歴史
という捉え方なのだと思います。
「台湾の日本建築巡り」、日本の人にも受けそうですね。