平和学習をめぐる朝日新聞の詐術的論法(8月9日の社説から)
松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵
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8月9日、朝日新聞の社説は「原爆の記憶継承 若い世代の新たな挑戦」というタイトルで、長崎への原爆投下から73年目を迎えたこの日、原爆の記憶が徐々に薄れていく状況、それに対して若い世代が記憶継承のために積極的に動いている点について論じている。
まず、冒頭で2つのエピソードを紹介。それは広島東洋カープに対戦チームの応援席から「原爆落ちろ」とヤジが飛んだこと、長崎で、修学旅行中の中学生が語り部の被爆者に「死に損ない」と暴言を浴びせたことである。これは許し難い。しかし、この許せない人たちの話を冒頭に持ってきている点に、社説のポイントがある。
原爆投下から73年、生存者の数も年々減り、社会全体の記憶として薄れていってしまうのは仕方のないことかもしれない。そんな中、朝日新聞は以下のような指摘をしている。
「学校での平和学習は、教育の政治的中立を強調する声の高まりで忌避の風潮が広がり、被爆地でさえ『後退』が指摘されて久しい」。
「広がる無関心と無理解、圧力と萎縮にどう抗していくか」。
つまり積極的に平和学習をしなさいという立場なのであろう。沖縄でも共通するが、平和学習の実態こそが問題。原爆で悲惨な体験をされた方が自らの体験を語り、それを聞くのは悪くない。しかし、そうした体験を語ると「戦争は絶対にいけない」「核兵器は廃絶しなければならない」という政治的主張につながるのが常である。
例えば「核兵器は使用すべきではない→そもそも戦争はするべきではない→憲法9条を守れ」という連想ゲーム的な護憲論に発展するのはよく目にする。こうした特定の政治的主張に結びつくことの弊害を教育の現場が感じ始めたからこそ、平和教育と称する政治主張の場は忌避される傾向があるのだと思う。
核兵器は使用されない方がいいに決まっている。しかし、日本が戦後、核兵器を使用されなかったのは、米国の核の傘に入っていたからである。核兵器の使用を防いだのは核兵器であるというパラドックス。そうした核兵器の特殊性を知ることが大事なことだと思う。
「核兵器全面廃絶」という主張が、現在の国際社会ではほとんど実現性がないことは明らか。そうした状況下で核の惨禍を防ぐために、核ある世界での核不使用のためにはどうすればいいのかということまで考えなければならない。平和学習と称する学習が、そうした具体的な対応を学ぶ機会を喪失させる効果を与えることが問題である。
このように平和学習に疑問を投げかける僕のような人間に対して、朝日新聞はどう対抗するか。それが冒頭のエピソードの果たす役割である。誰が見ても「これは許せん」という話を冒頭に持ってきて、その直後に平和教育の後退を指摘し、平和教育は絶対的に正しいものなんだという錯覚を与える。まさに詐術のような論法である。
原爆の悲惨な体験を伝えることが、一定の政治的主張に結びつき、異論を許さない現状に対して冒頭のエピソードのようなことが起きたと考えることもできるのではないか。メディアであれば、長崎の原爆投下から73年後の今、平和学習のあり方にも問題がないかを検証するぐらいの深い洞察が求められると思うが、そういう作業を一切しないのが朝日新聞である。