スポーツ紙の発行部数激減 深刻な人材流出
松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵
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日本新聞協会が昨年末、2021年10月時点の新聞の発行部数を発表した。一般紙、スポーツ紙ともに前年から大きく部数を減らした。特にスポーツ紙の落ち込みは激しく、その凋落の原因には優秀な人材の流出がある。「日刊スポーツ在籍30年間で出会った”最優秀記者”」も会社を辞めており、そうしたことがボディーブローのように効いていると思われる。
■スポーツ紙2年で約2割減
新聞協会の発表によると、2021年10月時点の新聞の発行部数は3302万7135部で、1年前の2020年10月の3509万1944部から206万4809部減少している。減少率はおよそ5.9%。コロナ禍が本格的に広まった2年前からの減少率は約12.6%となっている。
スポーツ新聞に関してはさらに落ち込みが激しく、今年が236万9982部で、前年の263万7148部から約10.0%減、2年前からは約19.2%減少となった。2年で市場が8掛け。日本に衰退産業は数多くあれど、これだけ急激に市場がシュリンクしていく業界も珍しい。10年前からは約44.3%減、20年前からは約61.3%減。20年で6掛けになったのではない。減少率が6割を超えており、20年前の4掛け以下という数字である(以上、日本新聞協会・新聞の発行部数と世帯数の推移 から)。
日刊スポーツ(東京本社)の発行部数が最も多かった日は、僕の記憶が正しければ1994年10月9日、いわゆる巨人と中日の10・8決戦の翌日で、120万部程度だったはず。僕が在籍していた当時、販売担当から聞いた話である。現在の日刊スポーツの発行部数は分からないが、大体、想像はつく。
僕は2014年10月の退職時に同社と秘密保持契約を結んだため詳細は書けないが、スポーツ新聞の発行部数の推移や独自に聞いた内部情報などから現在32万部~35万部、おそらく33万部程度と思われる。2008年の媒体資料では東京本社が84万946部となっているが、水増しされた数字であろう。仮に70万部と考えると、33万部はその約47.1%にあたる。
ここで新聞協会の資料でスポーツ新聞全体を見ると、2021年10月時点の発行部数は2008年10月時点と比べ約48.1%になっている。僕が予想する日刊スポーツの減少率がスポーツ紙全体の減少率とほぼ同一となることから、33万部説は当たらずとも遠からずと言えそうである。そこから想像すると、スポニチも同程度で30万部と少し、報知・サンスポは30万部を切っていると思われる。
■発行部数の減少で広告収入も減少
発行部数がここまで減少すると、広告料金もかなり減少していることが予想される。そうした分をカバーするには単価を上げることも考えられるが、下手に上げるとさらなる新聞離れを起こしかねない。
そこでネットで収益を上げることが考えられるが、新聞とほぼ同じ内容のサイトにお金を払ってみようという奇特な人間などいるはずがない。
こうした構造的な問題から日刊スポーツを含めスポーツ新聞はどこも危機的状況を迎えていると思われる。これはネットの発展だけが理由だけではない。スポーツ新聞の内容が、多くの人から必要とされなくなっていることに気付くべき。
これだけ部数が減少しているにも関わらず、日刊スポーツは今年の元日付け紙面で「深田恭子さんが今年中にも婚姻届を提出する方向で調整」という、どこも後追いしない記事を掲載した。十年一日のような報道をしていたら、読者が離れない方がおかしい。
■30年間で出会ったベスト記者
スポーツ新聞の衰退の理由の1つに、優秀な人材の流出もある。日刊スポーツでみれば、たとえばスポーツジャーナリストの増島みどり氏は1997年に退職してフリーランスとなった。ウィキペディアでは1984年入社となっているが、実際は彼女は僕と同期の1985年入社で、わずか12年で離職したことになる。
彼女が退職する時に同期で集まって送別会を行った。その時に退職の理由なども耳にしたが、私見であるが、彼女が辞めたのは日刊スポーツには彼女を使いこなせるだけの人材も体制も存在しなかったという点が大きいと思う。読者を呼び込める記事を書ける彼女が辞めたことは、日刊スポーツにとって大きな損失となったのは間違いない。
阪神タイガースや北海道日本ハムファイターズのGMを務めた吉村浩氏も、早々に日刊スポーツを離れている。彼は僕の1年後の入社だと思うが、1988年、出張の時に北海道本社で一緒に仕事をする機会があった。当時、人気が爆発した巨人軍の呂明賜選手の連載を書いており、(なかなかいい取材をするな)と感じたのを覚えている。
彼が会社に残っていれば、おそらく相当な出世をしたと思う。プロ野球のチーム作りで手腕を発揮した実績から、日刊スポーツの組織全体の成長が彼によってなされたかもしれない。
現在フリーライターとして活躍している島沢優子氏も日刊スポーツ出身。『桜宮高校バスケット部体罰事件の真実 そして少年は死ぬことに決めた』(朝日新聞出版)などの著作があるのでご存じの方も多いのではないか。
通常、スポーツ紙では、たとえば日本ハムの中田翔選手が暴力事件を起こした時に「愛すべき『やんちゃくれ』…」と書いた記者がいたように(参照・暴力行為の中田翔選手を「愛すべき」と書く記者)、その行為の持つ社会的な意味を全く理解せず、取材対象への盲目的な愛情を示す文章を書く者が少なくない。
島沢氏はその点、在職中からバランスの取れたものの見方をしていた。1990年代の半ばだと思う。彼女がバスケットボールに関してある事件が起きた時に「記者の目」のようなコラムを書いたことがあった。スポーツ紙では見たことのないレベルの、正義感に溢れた、バランスの良い記事であった。僕が「この記者はいい記事を書くなぁ。モノが違うよ」と他の記者に話したところ本人の耳に届いたらしく、後日、社内で会った時に「松田さんに褒められたのは嬉しいです」と言われた。上記の桜宮高校の事件の著書が彼女の真骨頂であると思うし、そのような優れた著書を書く素地のようなものは以前から感じさせていた。
内輪の話をすれば、彼女が静岡支局勤務当時の支局長が、かつての僕の直接の上司(レース部長)であった。破天荒なタイプの支局長だったのだが、たまに東京本社に顔を出すと、「シマ子(島沢氏の愛称)は出来るよ〜」と自慢そうに話していた。島沢氏については、一部ではかなり高い評価を得ていたのは間違いない。
僕は日刊スポーツに30年近く在籍したが「他紙を含め30年間で出会った記者で、最も優れた記事を書くのは誰か」と聞かれたら、島沢氏の名をあげるようにしている。
■現役でも優れた記者はいるが…
このように優れた人材の多くが、日刊スポーツを去った。写真部のエース格だったカメラマンもネット媒体に転職している。外で稼げる人は、サラリーマンより稼げるからやめていくのは当然と言えば当然なのだが、残ってもらえない会社というのも問題があるのは確か。
もちろん、今、在籍している、あるいは定年まで在籍した記者でも優れた記者はいる。退職後に江戸川大学で教授となった後藤新弥氏は大先輩であるが、語学力もあり、博識で文章力も相当なものだった。オールドファンには「スポーツUSA」(テレビ朝日系)での古舘伊知郎アナとのやりとりが思い出されるであろう。
その後藤氏も実力に見合った地位を得ていたとは言えなかった。組織の中で立ち回ることが嫌いな人だったのかもしれない。僕は(もったいないなぁ)(何で後藤さんを使わないのか)と会社の人事の不味さを思いながら、先輩の仕事ぶりを見ていた。
もう1人は現職の社員。僕が褒めることで、その記者の立場が悪くなっても困るので文化社会部の女性記者とだけ書いておくが、その女性記者は若い頃から取材力も文章のセンスも抜群であった。トップアイドルの結婚を単独で抜いたスクープには、自社の記事ながら驚かされた。後藤氏も、彼女もともに溢れるような才能を持ちながら上級管理職として組織を引っ張るような存在になっていないあたりに日刊スポーツの衰退の一因を見る思いである。
OBの1人として残念と言うしかない現状。経営陣には生き残りのために大胆な手を打ってほしいと願っているが、果たしてどれだけの時間が残されているのか。