老いぼれ作家 永井荷風を救った迷宮「玉の井」を歩く

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石井 孝明🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

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経済・環境ジャーナリスト。慶應義塾大学経済学部卒、時事通信社記者、経済誌フィナンシャルジャパン副編集長、アゴラ研究所の運営するエネルギー問題のサイトGEPRの編集担当を経て、ジャーナリストとエネルギー・経済問題を中心に執筆活動を行う。著書に「京都議定書は実現できるのかーC O2規制社会のゆくえ」(平凡社)、「気分のエコでは救えない」(日刊工業新聞社)など。
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 風変わりな散歩をした。作家永井荷風(1879-1959)が小説「濹東綺譚」(1937年刊)(ぼくとうきたん)の舞台にした、かつての私娼窟「玉の井」を逍遥(しょうよう)した。

 街は古く静かで、私もほっと心が和んだ。時代から取り残され、作家としても、私生活でも壁にぶつかった荷風は、ここで恋をし、創作の意欲が再び湧き上がり、作家として復活した。

 人生には想像もできない転機がやってくる。自分の復活を喜ぶ荷風の姿を想像することで、私も元気が出た。

◆消えた街「玉の井」の今

古民家を改造した玉ノ井カフェの格子戸から見るメインストリートいろは通り(東京都墨田区、撮影筆者)

 玉の井という街はもうない。今の東武伊勢崎線東向島駅の周辺地域を指す。公娼制度があった時代に、公認なく営業した私娼の集まった売春街だ。私娼窟と言われる。

 1945年3月10日の米軍による東京大空襲で町は燃えてしまった。さらに戦後も売春宿が集まったが、1957年に施行された売春防止法で、なくなってしまった。

 現在は、この地域に性風俗店は皆無。木造の建物は次々に取り壊され、当時の面影はほぼない都市の住宅地になっている。ただし区画整理などがされておらず、路地の形はほぼ戦前のままだ。

 くねくねした、入り組んだ道ばかりで、荷風がここをラビラント(迷宮)と呼んだ状況を想像することはできる。

 今の旧玉の井地区の建物の多くは私娼窟が解体された後に建てられたようだ。時間が経過した古い建物が多く、特に賑やかでもない街だ。居住者の方には失礼ながら、古く寂れた印象がある。逆にそれが旅行者には、安心感を与える。

◆小説「濹東綺譚」の舞台

晩年の永井荷風(1952年)(Wikipediaより)と、岩波文庫版「濹東綺譚」。表紙にある連載当時の洋画家木村荘八の挿絵も情緒があり高い評価をされている。

 荷風が玉の井に通いはじめたのは1936年の3月ごろ。同年2月の陸軍青年将校によるクーデター2・26事件の直後だった。当時の新聞を見ると、軍人が威張り出して大きな存在感を占めている。

 そして中国や英米で、外交的な衝突事件が頻発している。時代の雰囲気が戦争に向けてきな臭くなり、1937年7月には日中戦争が始まる。そうした世情の中で、「隅田川の東側の奇妙な話」の意味である「濹東綺譚」は、1937年4月から6月まで朝日新聞夕刊に連載された。戦前の日本人が平和を楽しんだ最後の時期だった。

 小説の筋は、荷風が自らをモデルとした老作家の大江が、創作に行き詰まる中で、華やかな東京の都心部ではなく、場末の私娼窟をぶらぶらしはじめる。そこでミューズ(女神)と呼ぶ、美しく、擦れていない優しい心を持つ売春婦のお雪の客となる。

 共に情が移り、お雪は大江に「おかみさん」にしてほしいと願う。しかし幸福な家庭を作れないと大江は自分のことを考え、お雪の元を黙って去るという話だ。単行本では、その後ろに、江戸趣味への憧れへのエッセイがついており、「濹東」という、珍しい漢字も江戸時代の文献から取ったという説明がある。

 荷風は毎夜のように玉の井に通う理由を、小説の登場人物の大江に、銀座など「首都の市街への嫌悪」と説明させる。怪しい男として警察に逮捕され取調べを受ける情景も小説で挿入している。軍国主義と戦争に向かう当時の社会風潮が荷風は嫌だったのだろう。その社会に背を向けて、永井の愛する文人や遊郭文化のあった江戸を思い出させる古い街として、ここを愛したようだ。令和の時代でも、旧玉の井の街の姿は、昭和のままだ。懐かしく、温かい雰囲気がある。荷風が訪れた時も、場末の街として古さを感じさせるものだったのだろう。

◆私生活でも閉塞状況だった荷風

入り組んだ東向島・旧玉の井の街並み。この写真の付近にあった売春宿に、お雪のモデルとなった女性を目当てに通ったとされる(撮影筆者)

 当時の荷風は私生活でも行き詰まっていた。荷風は玉の井に通いはじめた時の年齢は57歳。女性との放蕩が続き家庭を持たず、六本木にあった洋館に本に囲まれて一人で暮らしていた。そして理解者だった母親が37年に亡くなった。彼の家は上流階級だったが、好き勝手な人生を過ごしたために、家は弟がつぎ、親戚とは絶縁し、母の葬儀にも出なかった。また長い間、目立った作品が出せなかった。小説の中でもまた日記でも「創作意欲は肉欲の如し」「衰えた」という表現が、玉の井に通う前に出てくる。

 その中で荷風は、知らない街で若い売春婦と出会った。小説ではお雪というその女性を「ミューズ」(女神)と讃えて美しさ、心の優しさを描写している。荷風は彼女との精神と肉体の交流という新しい経験で、若さを取り戻した気になったのだろう。

 この小説を読んで気持ちが良いのは、こうした売春婦という弱い立場の女性に対して、荷風が蔑むことなく、温かい眼差しを向け、対等の存在とみなしている点だ。いわゆる従軍慰安婦や公娼制度など、当時の日本社会は女性の人権を尊重しなかった。売春宿の客だったとはいえ、荷風は弱い立場の女性への、偏見や差別感覚と無縁だった。逆に自分の弱さやダメさをさらけ出して、その女性に救いを求めている。そして自分が家庭生活に向かないと分析し、惚れた女性の幸せのために、小説の中でも、私生活でも、黙って去っていく。

 荷風は、買春がきっかけとはいえ、街と女性に出会い、新しい経験と恋をすることで自分を変えられた。結局は、その女性を裏切ることにはなったが、その悲しさと自分の変化で感じた高揚の中で新しい小説を書き上げる。評論家の川本三郎氏は、朝日新聞の2011年4月30日の「昭和史再訪」で、「荷風は玉の井という隠れ里で、見事に生き返った」と述べている。

◆思いがけない人生の転機が訪れることを信じて

 私は1990年代の大学生の頃、この小説を読んだ。またこの小説と荷風の日記を元に作られた新藤兼人監督・脚本で、津川雅彦主演の映画「墨東奇譚」(1992年公開)もみた。当時の私は、哀れな老人の嘆きとしか受け止められず、小説も映画も評価できなかった。

 ところが私は今、49歳になった。そして小説と映画を見直した。そこで、加齢した自分の境遇との共通点を見つけ、深く共感してしまった。

 新藤兼人氏の映画では、小説には出てこない、荷風の姿が描かれ、より印象深くなっている。名優の津川雅彦氏演じる永井荷風は、お雪との情交で元気を取り戻し、再び創作を再び行う。ところが戦争と空襲でショックを受け、活力を失っていく。一方で、荷風に捨てられたお雪は、戦後、進駐軍相手の商売をして、美しく着飾り、たくましく生きる。荷風は戦後、日々薄汚れ、老い、一人で寂しく死んでいく。それがお雪を捨て、自由な生き方を選んだ荷風の人生の当然の帰結としても、とても哀れだ。

 津川雅彦氏の名演技でも、荷風自らの小説内の文章でも、初老の男性のあせり、そして人生で成し遂げられなかったさまざまな諦めが出ていた。年を経ることで、私もそれを体感することができた。私は記者であるが、同じ文筆業である荷風ほど大した成果を残していない。焦りばかりが募る。そして同じように時代に取り残されたという思いもある。そうした自分を変えたいという思いは高まるが、その機会はまだない。もしかしたら私だけではなく、男女を問わず人生の後半に入った人が、必ず直面する状況なのかもしれない。

 荷風は買春と逃避という人には自慢できない行為の結果とはいえ、玉の井という場所に逃げ、そして女性に出会い、その人との恋で偶然救われた。荷風には、一人寂しく死ぬ哀れな結末が待っている。しかし生の輝きを、一度は取り戻すことはできた。

 私は曲がりくねった旧玉の井を彷徨いながら、同じ道を歩いた荷風の心情を想像した。50歳を超えて恋をし、活力を取り戻した。創作の意欲も湧いた。彼にとって、人生の偶然、その不思議さと素晴らしさに驚く経験であったろう。幸福感を抱きながら、若い恋人の元へ何度も通ったのだろう。

 同じように惑うおじさんになった私だが、人生の喜びを取り戻す機会は、残念ながらまだ訪れてはいない。ただし、荷風の幸せを、玉の井を歩いて想像しながら、何らかの形で再生の機会を捕まえたい、いつか来ることを信じたいと思った。この街と小説、映画に、元気をほんの少しもらった。

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