名物レースの終焉 米国衰退の象徴か

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。

 米イリノイ州のアーリントンパーク競馬場で15日(日本時間16日)、ミスターDステークスというレースが行われた。9月には閉場する同場の最後のビッグレース。そのお寒い内容に20世紀の海外競馬を知る者には一抹の寂しさが漂う。

■9月の開催を最後にアーリントンパーク閉場

アーリントンパーク競馬場の閉場を伝える写真(同場HPから)

 G1ミスターDステークス(芝10ハロン)は単勝5番人気のトゥーエミーズが先手を取り、6ハロン1分16秒64、マイル1分40秒62というスローペースに落とし楽々と逃げ切り勝ちを収めた。G1を2連勝中、単勝1.4倍の1番人気のドメスティックスペンディングは4番手から追い込んだが首差及ばず2着となった。

 日本の海外競馬ファンでもトゥーエミーズという馬名は聞いたことがない人がほとんどであろう。そもそも「ミスターDステークスって何だ?」という人も多いかもしれない。

 答えを言うと、2019年までのアーリントンミリオンが、今年はミスターDステークスとして施行されたのである(2020年は新型コロナウイルス禍で競走が実施されず)。

 ミスターDステークスの「D」は、アーリントンパーク競馬場を買収した投資家のリチャード・ダチョウソワ氏にちなむものだという(NBC CHICAGO:Final ‘Arlington Million,’ ‘Mr. D’s Day’ Event Set For This Weekend at Racetrack)。

 このアーリントンパーク競馬場は地域の再開発計画が進む中、所有するチャーチルダウンズ社が売却を決定、今年9月25日の開催を最後に閉場されることになった。1927年の開設から94年、名門競馬場は姿を消すことになる。

■創設時はバドワイザーミリオン

 アーリントンパーク競馬場の閉場は、20世紀の競馬を知る者には寂しさを感じさせるものであろう。この競馬場の最大のヒットは1981年に創設した世界初の総賞金100万ドルのアーリントンミリオンである。当初はスポンサー名を冠してバドワイザーミリオンという名称だったが、1987年からアーリントンミリオンに変更となった。

 当時としては破格の賞金、しかも米国では主流ではない芝のレースとあり欧州から米国に移籍しての参戦や遠征も少なくなく、格の高いレースだった。優勝馬はジャパンCに遠征することが多く、1991年の優勝馬ゴールデンフェザントは、当時、国内で無敵だったメジロマックイーンを差し切って優勝している。

 当時のアーリントンミリオンの優勝馬を見ると、ゴールデンフェザント以外にも、ディアドクター、スターオブコジーン、パラダイスクリーク、アワッドなど、来日し、さらに日本で種牡馬になった馬も少なくない。

 そうした状況から、1980年代後半から1990年代前半にかけて、競馬担当記者にとって観戦したいレースの1つがアーリントンミリオンであり、僕もそうだった。当時、サンケイスポーツで岡部騎手の番記者だった栗原純一記者が海外競馬に詳しく、よく話を聞いたものである。ある時、栗原記者がこう言った。

 「アーリントンミリオンってさ、スタートしてすぐにカーブなんだよね。そんなコースでよくG1レースをやるよな。アメリカはそういう国なんだろうね」

 当時、海外のレース映像も満足に見られない時代、(ああ、そうなんだ)と妙に感心したのを覚えている。そうしたコース形態でありながら高い格を誇るレースを「生で見たい」という思いはより強くなった。

 2002年には武豊騎手がチェシャーという馬で8月17日に行われたアーリントンミリオンに参戦(7着)、レース終了後、すぐに飛行機で大西洋を渡り、翌18日に仏ドーヴィル競馬場でジャックルマロワ賞にボウマンで参戦して6着となっている。当時は競馬担当を離れていたが、欧州のトップジョッキーと一緒にジェット機で大西洋を横断し、時差を克服して2日連続で米仏のG1レースに騎乗する武豊騎手を何となく誇らしく感じたのを覚えている。

■サウジカップ総賞金は20倍

今年のサウジCを制したミシュリフ(EquestrianCR画面から)

 そんな名物レースも時代の波には勝てない。米国ではブリーダーズカップこそがチャンピオン決定戦の性質が強くなり、アーリントンミリオンもブリーダーズカップへの1つのルートに過ぎなくなった。

 アーリントンパーク競馬場もスタンドの火災や、競馬人気の低迷で所有者も替わり、2年間開催を休むなど、経営状態の悪化もレースの質の低下に拍車をかけた。

 売り物だった総賞金のミリオンも、21世紀の今では売り物どころか敬遠する材料となりかねない。芝のレースで言えば、ブリーダーズカップターフの総賞金は368万ドル(約4億円500万円)、1着賞金だけで208万ドル(約2億2900万円)。

 米国以外では、ダート戦だがサウジアラビアのサウジカップは1着賞金だけでミリオンどころかテンミリオン(1000万ドル=約11億円)、総賞金は2000万ドル(約22億円)であるから、まさにケタが違う。

 結局、最後に行われたアーリントンミリオンは、総賞金60万ドル(約6600万円)、1着賞金35万2800ドル(約3880万円)と、1着賞金でいえば15日に行われたG3関屋記念とほぼ同額(3900万円)。レースも(チンタラ流れて直線用意ドン)というG1と呼ぶにはお寒い内容であった。総賞金がミリオンの6割しかないレースを「アーリントンミリオン」名で開催するわけにもいかず、苦し紛れのミスターDステークスという名称という事情が透けて見える。

■寂しすぎる最後のアーリントンミリオン

 一時は世界のトップに位置していたレースも時代の流れには勝てない。それは米国の世界におけるプレゼンスの低下とも無縁とは言い切れないように思える。

 競馬というごく限られたジャンルとはいえ、米国が輝いていた時代を日本の片隅から見ていた身としては、最後のアーリントンミリオンは寂しすぎた。

"名物レースの終焉 米国衰退の象徴か"に1件のコメントがあります。

  1. MR.CB より:

    》》ジャーナリスト松田様

    アーリントンミリオンからミスターDステークスに名称が変わっていた事を知りませんでした。
    そう言えば最近、聞いていませんでしたね。
    スタートしてすぐカーブのG1は確かにある意味でトリッキーです。枠順で有利不利(通常なら外枠不利)がありますね。日本なら秋の天皇賞(東京競馬場・10ハロン)が思い浮かびます。JRAも改修工事をしましたが、やっぱり依然として内枠に比べると外枠から発走する馬にはハンデとなっています。
    競馬の記事は松田さんのジャーナリストとしての原点だと認識しています。特に海外競馬については、スポーツ紙の記者があまねく取材出来るわけではありません。選ばれた記者が渡航し取材が許されるわけですね。これからも令和電子瓦版の競馬関連の記事を楽しみにしています。多岐にわたる取材を期待しております。

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