免職教師の叫び(3)妄想と現実の狭間

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。

 1998年秋、中学校の教師である鈴木浩氏(仮名)は、交際中の元教え子で当時大学3年生の石田郁子氏との別れを決意し、その考えを告げた。その場で鈴木氏は今に至る悲劇の原因を見ることになったが、そのことで石田氏の「虚言」も見えてきた。

■暗記できるぐらい身に覚えのない話の連続

 東京の旅行から帰ってきた石田氏が悪びれもせずに他者との性行為について話し、それを咎めるように言うと「別にいいじゃない、中に出してないから大丈夫」という答えが返ってきた。その時に、鈴木氏は(この人とはやっていけないな)(別れた方がいいな)と思い、1か月ほど経って、自分に電話番号を教えないことを理由に別れを切り出した。

 その時の石田氏の反応を鈴木氏は今でも忘れることができないという。「『何で』と聞いてきて、泣いたり、問い詰めようとしたり、『それだったら電話番号教えるわよ』と言って、近くにある紙に番号を書いて投げつけてきたり。そうかと思うと、ケロッとして『今度いつ会えるの?』と聞いてきました」。半狂乱のようになったかと思うと、笑顔になって話しかける。その異常な状況はさらにエスカレートする。

 「しばらくすると『あなたは中学校の頃、私にキスしたよね』と言ったので『してないよ。何、言い始めるの』と言い返しました。すると今度は『フェラチオしたよね』と言い出したので『してないよ、それはあなたのお父さんと愛人の話でしょ』と。今、裁判記録に乗っている私がしたとされる行為、もちろん、全て虚偽ですが、それを執拗にするんです。私が暗記できるぐらいに。私には全く身に覚えのないことを、繰り返し言っている、そういう状況でした」。

 ここで石田氏が口にしたのは、連載の第2回(決意した別れ)で示した、東京高裁が事実認定した内容である。ただし、鈴木氏は全て虚偽であるとしている。

(1)1993年3月(15=中3):鈴木氏のアパートで告白され、キスをした。

(2)同3月~4月(15=中3・高1):中学校内でキスや胸を触られ、床に段ボールを敷いてキスをした(2度行ったとされる)。

(3)同8月(15=高1):海に行き、鈴木氏の自家用車内で上半身の服を脱がされるなどした。

(4)10月か12月(16=高1):鈴木氏のアパートでキスし、口腔性交をした。

(5)1994年8月(16=高2):登山をして、山頂付近で口腔性交をした。

※月日の後ろの( )内の数字は、石田氏の年齢=学年

 この別れ話の前から、自分の父親の話を鈴木氏に置き換えて話すことは何度かあったが、この時から、作り話が一気にエンドレスの再生機のような状態で語られるようになったという。この別れ話の時に鈴木氏にすれば荒唐無稽な話がほぼ完成したという事実は、大きな意味をもってくるため、よく覚えておいてほしい。

■少なくともどちらか一方が虚偽

 上記(1)~(5)の話を、信憑生がないとして採用しなかったのが東京地裁の、逆に日付などを多少アレンジして認めたのが東京高裁の判決である。

 鈴木氏と石田氏の意見は真っ向から対立しており、少なくともどちらか一方が虚偽を述べているのは間違いない。そしてその特徴は「ゼロから1」「1からゼロ」ということである。鈴木氏にすれば、何もない、ゼロのところに身に覚えのない上記(1)~(5)がいきなり作り出されたことになる。石田氏からすれば、確実にあった「1」を鈴木氏が「ゼロ」ととぼけているという思いがするのかもしれない。そしてそれは、事実を針小棒大に伝える「1から10」、必要以上に軽視する「10から1」とは根本的に異なる。

 (1)~(5)の真偽を判断するには個別の言い分を吟味するのが一番であるが、それはひとまず措き、他の証拠から真偽がはっきりする点を検討してみよう。

2人の言い分は真っ向から対立(石田氏画像はAbemaTV画面から)

 注目していただきたいのは交際の終了時期に関する主張の対立である。鈴木氏は1997年5月に「好きです」と告白され、同年6月か7月から付き合い始め、1998年秋に別れたと話している。一方、石田氏は1997年7月頃まで鈴木氏の自宅で性交を繰り返していたとし、鈴木氏が認める交際期間(1997年6月か7月~1998年秋)が始まる時期である1997年7月に関係が終わっているとしているのである。両者の言い分を表にまとめたので見ていただきたい。鈴木氏の主張を「S(鈴木)説」、石田氏の主張を「I(石田)説」とした。

 完全に対立する「S説」と「I説」であるが、実は1997年7月以降に石田氏が鈴木氏の自宅を訪れて仲睦まじくしている光景を目撃した人たちがいる。

 1997年から1998年にかけて、鈴木氏の自宅には数人の友人が集まり、窓を全開にして焼肉を楽しむ機会が多かった。その場には交際相手となっていた石田氏がおり、鈴木氏の友人のA氏(男性)、B氏(女性)が4、5回同席し仲良く話をしている。特にA氏は、用事がなくても週に2、3回は鈴木氏の自宅を訪れていたそうで、「なんとなく石田氏には会っていました」という。それらを鈴木氏が2人から事情聴取し、札幌市教委に対する陳述書の中で明らかにしている。

 97年6月か7月以降の交際についてはA氏とB氏という複数人の一致した供述に裏付けられた客観的事実と言って差し支えない。石田氏はそれに反する供述をしていると言ってよく、少なくとも確実に1つ、虚偽の事実を述べていると判断できる。そのため、「I説」については少なくとも全てが真実であるということはないと言えよう。

 本来なら裁判所が証拠を検討してどちらが真実かを見極めるのであろうが、東京地裁も同高裁も認定をしていない。どちらの場合でも除斥期間の経過により請求権が消滅するため、判断する必要がないからである。

■石田氏が性的関係なしと嘘をつくメリット

30代の頃、自宅で愛犬と寛ぐ(写真提供:鈴木浩氏=仮名)

 「I説」の真実性が疑われることは明らかであるが、石田氏が97年秋以降「性的関係があるのにないと嘘をつくことのメリットは何か」という問いに答えるのは難しい。裁判に勝とうと思えば「その時期にも性的被害は続いていました」と言っておく方が都合がいい。そうすれば交際期間であるという留保がつくものの鈴木氏は「性的関係はあった」と認めることになり、両者の主観面(合意の有無)は異なっても、性行為があったことは争いのない事実として裁判所は認定する。

 嘘つきの特徴は大きく分けて2つあり、1つは、なるべくバレないようにする、もう1つは状況が自分に有利に働くようにする、という点にある。その意味でいえば、石田氏はバレにくい「1⇄10」を用いず、バレやすい「ゼロ⇄1」を使い、自分が不利な状況に追い込まれかねないという定石から外れた嘘をついているように見える。

 このような合理性を欠く行為をする理由を推測するのは困難であるが、嘘をついているという認識がない、妄想が生み出した産物と考えると、ある程度、理解は可能である。

 石田氏は精神的な不安定さに関し、事件後に治療を受けていることは裁判記録で明らかにされている。別れ話の際に、全くの虚偽と思われる話を持ち出して繰り返し言い続けたのは、妄想を現実と思い込んでいる状況を思わせる。そして、大事なことは、その妄想、つまり「I説」は、97年7月まで性的被害を受け、以後は関係が失われたというストーリーとワンセットになっていると考えられることである。

 それは前出の別れ話の時に「I説」が完成されているであろうことと関連する。98年秋の時点で「I説」の前半で鈴木氏の行為を性的暴行であると咎めている状況は、円満な交際を続けて破局に至ろうとしていることと連続性を保つのは難しい。しかし、自分は性被害を受けた1年後に相手を問い詰めている、自分は純粋な被害者であるシチュエーションを脳内で構築すれば、論理・行動に一貫性が出て自分自身を信じ込ませることができる。そのためには97年7月以降の交際はなかった方が都合がいい。

 しかし、現実の世界は「S説」で展開されている。そうすると、石田氏が「I説」の世界に没頭して鈴木氏を問い詰めている中、ふ、と我に返って「S説」に戻ったら言うべきは一つであろう。

「今度いつ会おうか?」

 妄想の世界から現実の世界に戻れば、交際相手との次のデートは最大の関心事。こうして石田氏は「I説」の世界に入り浸り、時折、覚醒して「S説」に戻っているとしたら、鈴木氏が指摘した石田氏の二重人格のような言動も理解が可能である。

■ラジオの歌声は妄想へと続く

 石田氏と妄想について考えさせられる、小さな出来事を鈴木氏はよく覚えている。交際中のある日、部屋で2人でラジオを聴いていると、ある歌手の歌が流れた。石田氏は「●●●の歌だね」と言ったが、たまたまその曲を知っていた鈴木氏は「いや、×××が歌ってるんじゃないか?」と答えた。

 歌が終わるとMCが「×××さんの歌声をお届けしました」と言って、鈴木氏が正しかったことが明らかになった。「ほら、そうだろ」と明るく言う鈴木氏は(やっぱり×××なんだ、先生すごいね)というような言葉を期待した。ところが、石田氏は黙り込んでしまったのである。(どうでもいいことでも、この子は自分の間違いを認めない、決して謝らない性格なんだ)と少々驚かされたという。

 自身がそう考えたことは現実と一致すると思っているから、間違っていることを突きつけられても決して認めないのではないか。そのため自己矛盾に陥った時に、逃げ場がなくなり黙り込むしかないのかもしれない。

 ラジオの歌声のエピソードは、鈴木氏を不幸のどん底に突き落とした石田氏の妄想の延長線上にあるように思えているという。

第4回へ続く)

第2回に戻る)

第1回に戻る)

"免職教師の叫び(3)妄想と現実の狭間"に2件のコメントがあります

  1. 月の桂 より:

    〉嘘をついているという認識がない、妄想が生み出した産物と考えると、ある程度、理解は可能である。

    〉別れ話の際に、全くの虚偽と思われる話を持ち出して繰り返し言い続けたのは、妄想を現実と思い込んでいる状況を思わせる。

    *****
    石田氏は、妄想を繰り返し考えるうち、それを事実だと認識してしまう傾向があるのではないでしょうか。彼女の中では、それ(妄想)は揺るぎない事実なのでしょうから、自分が受けた性被害を訴えることは当然であろうし、わいせつ教員を断罪するのは社会正義なのでしょう。事実、指導する立場を利用してのわいせつ行為や盗撮をする教員は存在するのです。石田氏の話が真実であれば、称賛ものですが、松田さんの取材からは、鈴木氏(仮名)の冤罪が濃厚だと感じます。

    冤罪被害者を救済するには、どうしたらいいのでしょうね。何か手立てはないのでしょうか。

    石田氏と伊藤詩織氏は、思考傾向が似ているような気がします。あと、産科医だったかな…医者が患者から訴えられた事件(手術後に胸をなんかされたとのこと)がありましたが、そちらも似たような空気が漂っていますね。あの医師も冤罪だと感じます。

    ***
    お返事は不要です。
    次回の記事をお待ちしています。

  2. MR.CB より:

    》》ジャーナリスト松田様

    初回から関心を持って読ませて頂いています。実に興味深い事件です。ある日突然に起こり得る恐怖。松田さんのアンテナに反応したんですね。大変かと思いますが、松田さんに事実の追求を託したいと思います。

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