平野啓一郎氏 妄想は作品だけにして
松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵
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作家の平野啓一郎氏が17日、安倍晋三元首相の国葬儀に関してツイートした。国葬儀を欠席することをアピールする人たちへの批判に対する反論と思われる内容。しかし、主張の前提が間違っており、誤った前提の上で主張するため説得力を欠くものになっている。
■ロザンの宇治原氏も参戦
平野氏は17日に国葬儀に関して、以下のように呟いた。
国葬と私的な葬式の区別がつかない人が、どうしてこんなに多いのか。私的な葬式はもう済んでいる。誰もそれは批判していない。国葬は法的根拠もないまま、政府が勝手に一人の政治家を権威化しようとしている。何故それに無批判に従うことが、最低限の「マナー」みたいな話になっているのか?(2022年9月17日 午後3時27分投稿)
前段の国葬と私的な葬式の区別がつかない人が多いと呟いている趣旨は、立憲民主党の蓮舫議員や辻元清美議員がツイッター上に国葬儀の招待状をアップし、欠席する意向を示したことに対して批判する人々を指していると思われる。ひろゆき(西村博之)氏が「人の葬式に行かない人は、黙って行かなければいいだけです。『行きません』とわざわざ言う必要はないと思います。遺族と参列者に失礼です。」(2022年9月10日 午前7時2分投稿)というツイートをしたことなどが念頭にあるのかもしれない。
また、お笑いコンビ「ロザン」の宇治原史規氏もYouTubeチャンネルで、相方の菅広文氏を相手に以下のように話している。
「普通、一般的によ、国葬やからね、普通の葬儀やないけど、葬儀の招待状ってかさ、何かお知らせが来てSNSに載せる? 写真撮って。たとえば、おめでたいもの、結婚式の招待状が来て載せるにしたって、本人に載せていいか聞かへん? 送った人に。そんなことってええの? やって。…僕はちょっと非常に反対です、それは。」(ロザンの楽屋・【国葬】招待状の写真をSNSにあげるべきではない)
平野氏はこうした人々を(国葬と私的な葬式の区別がつかない人)とひとまとめにしているのであろう。
■平野氏はなぜ理解できないのか
国葬儀と私的な葬儀が違うというのは平野氏に言われるまでもなく、おそらくほとんどの日本国民は分かっている。国葬儀は政府主催の儀式であり、政教分離の原則から宗教的な要素は含まれない。平野氏の言う「私葬」は国など公の機関が関わらない私的行為、かつ、一般的には宗教活動である。
そのような違いがあるから、私的葬儀でのマナーは国葬儀では語れないという主張なのかもしれない。しかし、平野氏のツイートには、国葬儀と私的葬儀に共通点もあることがスッポリと抜け落ちている。その点を無視して話を進めている点に、多くの人は違和感を覚えるのではないか。
国葬儀は行政が行うということであるから、それに反対するなら、政治的主張をすれば足りる。あるいは裁判所にその差し止めを求めることもでき、実際にした人々もいる(参照・「安倍元首相の国葬を許さない会」は社民党”別働隊”)。
しかし、国葬儀も私的葬儀も、主たる目的は死者の追悼であることを忘れてはならない。国葬儀であっても遺族は存在し、あらためて死者を悼み悲しむはず。もちろん、遺族以外にもその死を悼む人は少なくない。国葬儀に反対するのは行政手法への批判であるから、それはそれで政治的主張をするのは勝手であるが、そうした主張と遺族などに不快な思いをさせる行為とは明確に一線を引くべき。ひろゆき氏や宇治原氏はまさにそこを主張しているわけで、国葬儀をやめろという政治主張そのものを批判しているわけではない。
そうした国葬儀でも私的葬儀でも心を痛めている人々の目につくように、葬儀のお知らせをSNSにアップして「私、出ません」と、いかにも当該葬儀が参加する価値のないものとするような、もっと言えば、邪悪なセレモニーであるとの印象を与えるような行為は人として許されないということである。
このように、多くの人は国葬儀と私的葬儀の共通点があることから、その共通点に反する行為を倫理的な側面から批判しているのであり、決して区別がつかないわけではない。京都大学出身で作家の平野氏がこの程度のことがなぜ理解できないのか、不思議に思う。
■法的根拠に関する議論と侵害留保説
平野氏のツイートをさらに分析してみると、おかしな内容であることが分かる。例えば「国葬は法的根拠もないまま、」という部分は明確な誤り。今回の国葬儀については、岸田総理は7月14日の記者会見で、内閣府設置法4条3項33号内閣府の所掌事務として定められている国の儀式であると説明をしている。実際にそれを根拠に国葬儀が行われるわけで、それを「法的根拠もない」と明らかに虚偽の事実を示している。フィクションは作品だけにとどめていただきたいと思う人は少なくないと思われる。
仮に、国葬儀などを実施する場合には個別の法令が必要であるという考えから「法的根拠がない」と表現したとしたら、それも誤りである。「行政活動のすべてについて法律の根拠が必要であるとする見解」である全部留保説は実際の行政活動の中では採用されておらず、侵害留保説が採用されている。これは「侵害行政についてのみ法律の根拠を要するとしており、それ以外の行政活動については法律の根拠を要しないという考え方に依拠している。」(行政法 第5版 櫻井敬子、橋本博之 弘文堂 p16)とされる。
普通に考えれば分かるが、物事を実施しようと思った時に全て法律の根拠が必要となれば、一々、法律をつくる手続きが必要になり、円滑な行政が阻害されてしまうし、政府の迅速な対応ができなくなってしまう。法律の留保の問題は行政法の初歩の初歩。平野氏は文学部出身の作家で法律を勉強したことはないと思われるので仕方がない部分はあるが、せめてそれぐらい勉強してから呟いたらどうかと思う。(以上、国葬絡みで露呈 江川紹子氏ら無知と不勉強 参照)
この法律の留保の問題については、中央大学法科大学院教授で弁護士の野村修也氏が9月8日にラジオで紹介した。以下のようなコメントがテキスト化されている。
「確かに内閣府設置法という法律が一応ありますから、法律に基づいていることは明らかであり、法的根拠がまったくないというわけではありません。」と法的根拠があることを明言。さらに法律の留保について全部留保説と侵害留保説の2つの説に関する説明を続けている。「国の事柄、やれることを全部法律でこと細かく手続きから何から決めているかと言うと、そんなことはなくて、国民の権利を制限するような行為については、法律をきちんとつくりましょうというルールなのです。」(ニッポン放送 NEWS ON LINE・政府が「国葬」ではなく「国葬儀」と言う理由)
一般の人を相手に話したので全部留保説など行政法の専門用語は使用されていないが、まさにそのことを野村氏は説明しているのはお分かりいただけるであろう。
■吉田元首相は権威化されたのか
もう少し分析を続ける。「政府が勝手に一人の政治家を権威化しようとしている。」という部分もおかしい。「勝手に」という言葉をどのような意図で使用したのか分からないが、上記のように法的根拠があることは明確で、「勝手に」という表現は少なくとも国葬儀を行う政府に対しては当てはまらない。
さらに「一人の政治家を権威化しようとしている」という点であるが、国葬儀を安倍元首相の権威化のために行うなど岸田総理は一言も言っていないし、実際に吉田茂元首相が国葬となったことで権威化されたかと言えば、決してそのようなことはないと思われる。
岸田総理は国葬儀を行う理由を閉会中審査で説明した。「①憲政史上最長の8年8カ月にわたり、首相を担った②東日本大震災からの復興、経済の再生、外交を主導し、実績を分野で残した③諸外国で敬意と弔意が表明されている④民主主義の根幹たる選挙中での非業の死」(朝日新聞DEGITAL・国葬 岸田首相の説明、従来通り 立憲・泉氏は「誤りで強引」と批判)。
こうした理由で実施される国葬儀が、平野氏には「安倍氏を権威化する儀式」に見えるのであろう。そう考えるのは勝手であるが「権威化しようとしている。」と断言するなら、その根拠を示すべき。根拠なき断定は一般的に妄想と言われる。
平野氏も作家ならもう少し言葉を大事にすべき。せめて、妄想を語るのは作品内だけにしてはいかがか。
>京都大学出身で作家の平野氏がこの程度のことがなぜ理解できないのか、不思議に思う。
>>京都大学出身
あっ(察し)
基本、「(法的根拠等を)ちゃんと説明しろ!」と言っている連中は、いくら説明しても理解しない。
※『理解したくない』=理解してしまったたら文句が言えなくなる、から。
近年の芥川賞は「文春の社是通りにモノを言うことができる人間」が故意に選ばれているような気がして仕方がない。
高学歴、芥川受賞歴のある文筆家、といっても主張する内容があまりにも稚拙。
極左界隈の人間の特徴に丸被りで寸分の狂いもない。