福島原発事故 放射能パニックからの生還

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石井 孝明🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

石井 孝明🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

経済・環境ジャーナリスト。慶應義塾大学経済学部卒、時事通信社記者、経済誌フィナンシャルジャパン副編集長、アゴラ研究所の運営するエネルギー問題のサイトGEPRの編集担当を経て、ジャーナリストとエネルギー・経済問題を中心に執筆活動を行う。著書に「京都議定書は実現できるのかーC O2規制社会のゆくえ」(平凡社)、「気分のエコでは救えない」(日刊工業新聞社)など。
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 2011年の福島原発事故のあまり知られていない被害に、人々の心を傷つけ、パニックに陥らせたことがある。そのような人々は被害者であるが、同時に被災地に対する風評被害や差別を行う加害者になりかねない。彼らの存在がパニックの伝染により社会に混乱を広げた側面はある。

◆不安による心身の変調と家庭不和

写真はイメージ

 主婦でセミナー企画などの自営業を経営する東京在住の白川由美さん(仮名)は原発事故後に放射能パニックに陥り、そこから抜け出した。冷静に自己分析できる白川さんのような女性でも、こうしたパニックに陥ってしまった。遠い存在ではなく、私たちの身近に存在する心の病なのかもしれない。2012年5月に公開した記事を再掲し、原発事故のもう1つの側面を感じていただければと思う。(元記事は&ENERGY放射能パニックからの生還-ある主婦の経験から

石井:放射能パニックとしてどのような状況になったのですか。

白川:震災直後からおかしくなりました。2011年9月から10月にかけてが一番ひどかったです。原発の状態と放射能汚染の事ばかりを考え、情報収集に明け暮れ、ノイローゼでした。「このままでは放射能汚染で死んでしまう。その前に関東で地震が起きて死ぬ可能性もある」という思いに取りつかれ不安が拭えず、めまい、頭痛、だるさ、激しい動気に悩まされ、体調も最悪の状態でした。

 生活もおかしくなっていました。食材は東北から離れた西日本や北海道、外国産のものだけを利用。原発事故前につくられた米を大量備蓄しました。私の家は母子家庭なのですが、子どもにマスク登校を強要し、教育委員会には給食やプールの安全性について問い合わせをしました。子どもは私に反発して毎日親子喧嘩を繰り返しました。それでも私は、「自分が正しい」と思い込み、子どもの気持ちを無視して、毎日おかしな情報を集め、それを自らも拡散していたのです。

石井:医師や専門家などが発信する、正しい情報を集めなかったのでしょうか。

白川:情報の入手先は、ネットが中心でした。ツィッターをメインにしてブログやUSTREAM。情報ソースは、暗く悲惨な情報を流していることで有名になっている人ばかり。匿名の人たちから大学の先生、研究者まで色々でした。今になるとおかしな人々を信じてしまったと思いますが、当時は正しいと思っていました。そして「御用学者」とされた正確な情報を発信する人の話が間違っていたと思い込み、話を聞きませんでした。また原発事故まで原発や放射能についての知識はほとんどなく、情報の真偽を確かめられませんでした。

 放射能パニックに陥った人の集まりに出たことがあります。私のように思い込みが激しく、偏った情報を信じる人ばかりでした。私は他人との交際はある程度ありますが、その人々はネットばかりを使い、リアルでコミュニケーションを取ることが上手ではない人が多かったようです。頭の片隅で「この人たちはパニックになっているな」と思ったのですが、自分がおかしくなっていることには思いが至りませんでした。

◆福島県民の苦しみを知り自分の狂気に気づく

石井:恐怖がピークに達した際にどうしたのですか。

白川:疎開先を探し、北海道の田舎に移り住もうとしました。引っ越しの準備を始めようとした矢先、私の狂乱ぶりを心配した現実での友人たちが何人も「やめなさい」と忠告をしてくれました。仕事に支障が来たすし、私が常軌を逸していたことを指摘してくれました。しかし同じ放射能パニックに陥っていたネット上だけの知人達からは「疎開決定おめでとう」コールが殺到しました。

 生活や収入のことを考え、東京にとどまることにしました。当時住んでいた所は、池袋のそばで、家賃は高いのに住環境が悪く、まともに太陽を見ることもできない所でした。多摩に引っ越しましたが、緑がいっぱいで、空も良く見えます。家賃は安くなったのに、部屋の間取りが広くなり、清潔さも増しました。これで私の心は一息つくことができたのです。とはいえ放射能ノイローゼはそのまま。食生活に気を使いながら、相変わらず毎日、ネットで情報取集していました。

石井:そこから、なぜ変わることができたのですか。

白川:少しずつ変化をしました。疎開を止めたころから考え直したり、しっかりした人の本を読んだり、行動が少しずつ変わったのです。そして友人である福島出身の若い男性が「福島から来た」というだけで、ひどい差別とイジメを受けたことを聞きました。彼は私の前で泣きました。それを見て、私は大きな間違いを犯していたことに気が付いたのです。私は被災者のことは考えずに自己中心的な思いだけで「放射能」を捉えていたのだと理解したのです。

写真はイメージ

 私のノイローゼが悪化したのは、自分の生活や、心の問題があったためです。落ち着き始めると、それに気づきました。東日本大震災から私の生活は悪化しました。私はセミナー、イベント企画などの自営業をやっていますが震災自粛ムードで、仕事が減りました。そして震災や原発事故のテレビ映像にばかり関心を向けて、何もできなくなってしまったのです。

 すると、あらゆることにやる気を失いました。どうせあがいても、放射能で東北と関東は壊滅する、もう未来はないと思い込みました。絶望感でいっぱいでした。ところが同時に、当時は正直に言うと、うれしい気持ちもあったのです。「放射能と地震で、私の苦しみが解放される」という矛盾する気持ちも、わいてきたのです。

石井:「苦しみからの解放」とはどのようなことでしょうか。

白川:数年前から幾つかの大きな壁に直面して、困惑していました。私は44歳です。まず自分の年齢により、容姿とスタイルが以前より明らかに劣化しています。「おばさん」として社会から扱われ、自分もそう見ている。この現実が受け入れられませんでした。

 そして仕事の問題がありました。大きなことをして世間をアッと言わせたい。長年そんな願望がありました。けれども、何もできていません。他にも子育てや人間関係など悩みは一杯ありましたが、どれも解決の見通しは立っていませんでした。自信を喪失していました。「心に大きな穴」というか、絶望めいたものがあったのです。

 そんなときに、放射能問題によって、すべてがリセットされて、一から人生をやり直すことができるのではないかという思いが起こったのです。破壊の中に救いを求める気持ちです。私が震災情報に夢中になったのは、それが刺激的で、これまでの人生の悩みを忘れる事ができるほどのものであったためです。

石井:つまり「強烈な不安」が「心の穴」に蓋をして、生きる目的までつくってしまったのですね。

白川:ええ、そうです。不安が強ければ強いほど現実の問題から目を背ける事ができました。「放射能で子どもが死ぬ」というのは強烈なメッセージで心底怯えました。しかも母親として子供を救う使命感もありました。「母親」という立場が、パニックに拍車をかけたと思います。

 私は役割を得たとも思いました。思うような人生を歩むことができない事を、社会のシステムの責任にしていました。「原発」問題は社会に反撃を行うチャンス。原発というこれほど分かりやすい「悪」はありません。「反原発」を唱えることで、特別な使命を持った選民意識を持てましたし、自己愛が満たされました。自分のパニックの背景に「自尊心の維持」があったと、今になって思います。

◆脱パニックは周囲の理解でゆっくりと行うべき

石井:パニックから目覚めた後で、何が起こりましたか。

白川:おかしさに気づく過程で自分の嫌な面に気づき、自己嫌悪に陥りました。またおかしな情報を拡散したことや、福島や被災地の差別に加担したことの罪悪感も抱きました。また自分の心の先行きにも心配しています。私は極端から極端に触れやすく精神のバランスの悪い人間です。以前は放射能ノイローゼに依存しましたが、今は「脱放射能」に傾きすぎているのではないかと不安を抱きます。放射能や生活のリスクを直視せずに「これでいいのか」という心配があります。パニックから抜け出ることも、かなり精神的に苦しいことでした。

石井:放射能パニックに陥った方をどのように救うべきでしょうか。

白川:放射能パニックはカルト宗教への依存と似たものがあったと感じています。パニックに陥った人々の世界には、不満や不安を抱いている自分を心地よく受け入れてくれる仲間がいます。同類同士が傷の舐め合うことができます。しかも現実の煩わしさの少ない、ネットでの情報のやり取りが多かったのです。さらに自分の頭で考えることを放棄できます。道を示してくれる崇拝者、つまり「恐怖情報ソース」がいるのでとても楽でした。居心地のいい場所で、現実の世界にはない絶対的安心感を抱けました。

 しかし、それが何も問題を解決しないこと、さらに虚構の上に成り立っていることを、この中にいる人は知りませんし認めたがりません。そこからの脱出の道筋は人それぞれであると思いますが、他の人が示す情報によって、少しずつ気づかせ、変えることしかできないのではないでしょうか。周囲の協力が必要であると思います。

 私は「心の闇」を持ち、それが放射能パニックに陥った大きな原因であると思います。ただし、私のような人ばかりではないでしょう。情報を調べることが得意ではないとか、子どもへの心配が大きすぎて冷静ではいられないとか、人間関係も苦手で情報が手に入らないとか、多様な視点から問題を考えられない状況にいるだけの人もいると思います。そのような人は私よりも、気づかせることで簡単に状況から抜け出せると思います。

 私はできるなら、こうした方々を救うお手伝いをしたいと思ってインタビューに応じました。パニックに陥った人を批判、攻撃するのではなく、温かく見守ってほしいと思います。

◆虚しさが残る日々

福島第1原発(2017年10月、石井孝明撮影)

 筆者は2012年から2017年までエネルギー問題の情報サイトの運営に関わり、エネルギー、福島の放射線に関するデマを正しい情報で是正しようとした。震災の記憶も生々しい時期、世論を巻き込む反原発の狂乱の中で、その効果はどれほどあったか。正しいことを言っても、どんなに分かりやすく解説しても、騒ぐ人はその説明を聞いていなかった。もしくは自分の利益になるために騒いでいるためか、無視した。

 福島第1原発事故から11年が経過した。社会もようやく落ち着きを取り戻し、筆者の主張していたことも(今となっては正しかったな)と思ってくれる人も少なくないはず。だからといって、(見ろ、俺の言った通りだろう)などと胸を張る気分でもないし、真実を発信し続けられたことの喜びもない。あるのはただ、虚しさだけ。風評は今も続き、壊された福島のイメージ、そしてエネルギーシステム、原子力の評判は変わらない。当時、騒いだおかしな人たちや、メディアの多くは「ツボガー」「アベガー」と別の問題を騒いで、また無駄なエネルギーを社会の他の人たちに費やさせている。

 社会不安→パニック→回復という問題は、誰でも経験することなのかもしれない。今話題の統一教会問題でも同じようにおかしくなった信者の人はいるだろう。物事を見る参考になるはずだ。また2011年前後に、日本が狂気を覆っていたことの歴史上の記録でもある。11年前の白川氏は、明日の自分かもしれない。ーー多くの人にそんな意識を持ってもらえれば、と今は願っている。

※元記事は石井孝明氏のサイト「&ENERGY」に掲載された「放射能パニックからの生還-ある主婦の経験から」 タイトルをはじめ、一部表現を改めた部分がありますが、取材部分はそのまま掲載しています。

"福島原発事故 放射能パニックからの生還"に1件のコメントがあります。

  1. まいまい より:

    >当時、騒いだおかしな人たちや、メディアの多くは「ツボガー」「アベガー」と別の問題を騒いで、

    そのような人で神奈川の一部地域で有名だった某人は、当時ブログでこう書きました。

    「もう、首都圏3千万人がヒバクシャです!」

    広島で被爆された方の事を、時々この手の人はわざとカタカナで「ヒバクシャ」とかきます。それを知っていたので、読んでイヤな想いをした記憶はいまでも強く残っています。

    書いた人は、いま山本太郎とその政党の熱心な支持者。嘆息です。

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