昭和深イイ話 背筋伸ばした駄菓子屋のジイさん
松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵
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昨今はコンプライアンスの重要性が強調され、法令遵守の精神はもちろん、社会規範そのものが昭和の時代とは比べ物にならないぐらい厳格になっている。とはいえ、昭和の時代に生きた我々も、幼い頃に学んだことが今に生きているという部分もある。今日は筆者が体験し、今に生きるエピソードを紹介しようと思う。
■女子高校の前の駄菓子屋
僕は埼玉県熊谷市で生まれ育った。聖母幼稚園、熊谷市立東小学校で学び、どちらも埼玉県立熊谷女子高校(熊女)のすぐ近くだった。そのせいで、遊び場はもっぱら熊女の近辺であった。
昭和40年代初頭、熊女の正門のすぐ横に駄菓子屋があり、確か「タケダ」とかいう名前の店だったと思う。そこが当時の行きつけの場所で、1日20円のお小遣いで、1回5円のクジを引くのが楽しみだった。1等はプラスチックの模型が多く、たとえば鎧兜だったり、あるいは戦艦だったり、幼い男の子が見て(いいなあ)と感じるものばかりで、毎日、クジを引いては一喜一憂していた。
70歳から80歳ぐらいの腰の曲がったヨボヨボのおじいさんが一人で店番をしており、いつもラジオで浪曲のようなよく分からない音楽を流しながら、机の上で作り物をしていた。今にも壊れそうな家屋、テレビもない、多分、お風呂もない、お世辞にも豊かには見えない暮らしをしているのは子供心に分かった。
そのおじいさんは子供が好きだったようで、僕が毎日のようにクジを引いて、ハズレだと「残念だったね」と、消しゴムのような小さな景品をくれて、1等や2等が出ると「おお、すごいな」「よかったな」と声をかけてプラスチックの模型を大事そうに渡してくれた。昭和のおじいさんといえば明治生まれの気難しい人が多いという印象があるが、そのおじいさんは、とても優しかった。
■1本100円の洗剤を買いに行くと…
小学校に入るか入らないかという頃の話。ある時、僕は母に頼まれて液体の洗剤を買いに行った。消費税もない当時、その洗剤は100円で売られており、僕はきっちり100円を渡されて、近くの商店で購入した。ところが、その日は安売りをしていたのか95円で、お釣りが5円入った。
(これはラッキー)と子供心に思った僕は、洗剤を持ったまま「タケダ」に走って行った。こういう時は、お釣りを使っても(お使いのお駄賃に)という感じでいつもニッコリと笑ってくれる優しい母だった。5円あれば1回、くじが引ける。そう思って僕はいつものようにおじいさんに5円を渡してクジを引いた。1等を期待したが、そうそううまくいくはずもなく、おじいさんから「残念だったなぁ」と言われ、消しゴムぐらいの大きさの、確か飛行機の形をしたゴムかプラスチックでできた模型とも呼べないような景品をもらった。
そのまま帰宅して、母に買ってきた洗剤を渡し、その後にズボンのポケットから、飛行機の形をした模型を取り出した。すると、母がそれを見て、僕に聞いてきた。
母:お前、それどうしたの?
僕:クジ引いたけど、ハズれだったんだ。
母:クジ引いたって、お前、お金持ってなかっただろう?!
僕:洗剤が95円だったから、5円お釣りがあったんだ。
母:この洗剤、100円でしょ!
僕:95円だったよ。
母:…お前、その飛行機みたいの、盗んできたんじゃないよね?
僕:盗むわけないじゃないか!
母は僕がいくら言おうが聞く耳をもたない。僕があくまでも嘘を言っていると感じたのか「じゃあ、今からお店に行くから、一緒に来なさい!」と言って、僕の手から飛行機の模型を奪い取り、手を引っ張って、タケダへと向かった。
■お金を払ったでしょうか?
タケダに着くと、母は店の奥にいるおじいさんに声をかけた。いつもは子供しか来ない店に大人が来たから、おじいさんも驚いたに違いない。そんなおじいさんに母は「さっき、ウチの子が、これを持ってきたんですけど、ちゃんとお金を払ったでしょうか?」とダイレクトに聞いた。
それを聞いた時、子供心に(ヤバい)と思った。子供の目から見て、半ばボケているおじいさん。物忘れもひどいかもしれず、そうなった時に大人同士で話を合わせ、(まあまあ、いいじゃないですか、子供のしたことですから)といった感じで僕を泥棒にして話がまとまってしまうのではないかと思ったからである。
心配顔の僕の横で、おじいさんは母が出した飛行機の模型と、僕の顔を交互に見てこう言った。
「この子は、お金を払いました」
(ああ、よかった)と僕はその時、思った。しかし、母はその答えに納得しなかった。
母:本当に払いましたか?
おじいさん:はい。
母:この子、お金は持ってないはずなんですけど。
おじいさん:いえ、ちゃんと5円、払いました。
母:でも、持ってない…
おじいさん:この子は、ちゃんとお金を払いました。それでクジを引いてハズれました。
おじいさんは曲がった腰を真っ直ぐにしたように感じた。いつもは子供相手に優しく、少しボケた感じであるのに、この時は優しい笑顔は消え、厳しい表情ではっきりと語ってくれた。
■母は泣いていたのか
母はお騒がせしましたなどと言って、また僕の手を引いて家に向かった。僕は「だから、お金を払ったと言ったじゃないか」と不満そうに言った記憶がある。母は謝るでもなく、黙って僕の手を引いて歩いていた。
母は一言で申せば「おっちょこちょい」で、息子が他人の物を盗んだと思い込み、動転していたのであろう。不正義はたとえ自分の息子であっても許さない、息子だからこそ許せないという性格であった。
おじいさんの話を聞いて、自分の息子は泥棒などではなかったことを喜びつつも、息子を信じてやれなかった自分が情けない、息子に申し訳ない、そんな思いだったのか。いつもは優しかった母が僕の方を見ようともせずに手を引っ張って歩き続けたのは、もしかすると、その時、涙を流していたのかもしれない。最近、そう思うようになった。
そして、タケダのおじいさん。ヨボヨボのおじいさんが、この時ばかりは背筋を伸ばし、はっきりとした言葉と態度で僕の冤罪を晴らしてくれた。大人が子供の味方をしてくれた、大人同士なあなあで話をつけるのではなく、相手と摩擦を生じてでも、正しいことは正しいと主張する大人がいること、それが僕が毎日のように接している、ヨボヨボのおじいさんであったことに胸がいっぱいになった。
■僕は大人になんかなりたくない
この出来事は、僕の後の人生に多少は影響している。大学4年の就職活動の時期に「正しいことは正しく、間違っていることは間違っている。それをはっきり言わないことが大人になるということなら、僕は大人になんかなりたくない」と、そんなことをよく口にしていた(参照・気がつけば松田聖子がそこにいた)。
「清濁併せ吞む」みたいな大人の世界の醜さに嫌悪感を感じていた時期で、それがメディアに入ろうと思う原動力の1つになっていたのは間違いない。
令和の時代に、こうした昭和の物語はあり得ないが、昭和の時代にもいいことはあったと20世紀を生きてきた者として思う。
タケダは今は取り壊されて、店舗があった場所は駐車場になっている。おそらくおじいさんはもう亡くなっていると思う。
そして、母は今年91歳。かなり記憶力は鈍ってきたが、身体は元気いっぱいである。先日、この話をすると「そんなことがあったかねえ。全然覚えてないよ」と他人事のように言って、ケタケタと笑った。
本当に忘れているのか、忘れたふりをしているのか、僕には分からない。ただ、この人の息子に生まれて良かったな、という思いはした。
》》ジャーナリスト松田様
お母様はお元気なんですね。昔話を還暦過ぎても親と出来ることは素晴らしいと思います。
記事を読んで思い出した出来事があります。
私が小学生、多分5年生だったと思います。
教室の掃除をしていました。友人テツヤのあだ名は「鉄人28号」。私は手に持った操縦桿(かん)を操作するしぐさでふざけていました。
すると担任の男性教師から「上田(テツヤ)はごまをすっているんじゃない!真面目に掃除しているだけだ。勘違いするんじゃない!」と凄い剣幕で怒鳴られました。
テツヤも「違うんです、先生」と言ってくれましたが、一向に取り合ってくれませんでした。
当時、テツヤはクラスで一番の成績で常にクラス委員長でした。私はと言うと成績はビリから3番目(笑)の落ちこぼれの生徒。子どもながらに、理不尽な先生の仕打ちに悔しい思いをしました。
と同時に成績で判断する先生に対して「先生も間違うんだ。しかも成績で人を評価する」と大切な事を学んだ気持ちにもなりました。
おかげで小学1年生から一度も宿題をしたことが無かった私が毎日勉強するようになりました。
そして6年生になる頃には、テツヤには敵いませんでしたけど上位から3番目の成績になっていました。突然、【やる気スイッチ】が入った私に先生や両親、そして友人達がビックリしたことを今でもよく覚えています。
長くなりましたが、松田さんのほっこりした記事で、子供の頃の貴重な体験を思い出して笑顔になれた朝でした。
いいお話をありがとうございました。子供の頃の先生は人生に大きな影響を与えるので、責任重大だと思いました。僕も小学校時代の先生には割り切れない思いをしたことが何度もありました。
僕の記事で笑顔になれたと言っていただけるのは、大変光栄です。ありがとうございます。
それにしても、やる気スイッチが入って、一気に成績上位はすごいですね。その姿は、まさに「大地が弾んで」という感じだったのでしょう(笑)
>1等はプラスチックの模型
>たとえば鎧兜だったり、あるいは戦艦だったり
“童友社”さんw
その童友社さんの戦艦のプラスチック模型:大和、は、例の“宇宙戦艦ヤマト”のブームの時には箱絵(=ボックスアート)が変わり、何故か『宇宙を“飛んで”いた』(!)
※全く戦艦:大和そのまま=海を航行する艦船としての姿で、であるw
ところで、
“駄菓子屋さん”の件だが、残念ながら「気さくなオーナー店長」ばかりでは無かった。
記事にもある様な当りクジの“当り”を引いても、「他の店の捨てたやつを拾って来ただろう!」と理不尽に問い詰められた記憶を持つ人も居るだろう。
(本当にそう言う事をする悪ガキも、これまた確かに居た……)
5円10円のクジで利益何円?の世界、オーナーから見れば、そー言う事をされれば確かに厳しい、駄菓子屋さんはまさに『大人世界の縮図』だった。