23年後のサバイバー 若松泰恵(4) 友情の舞台裏

The following two tabs change content below.
松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。

 現在、コミュニティFMでMCを務める若松泰恵氏(50)のサバイバー(TBS系、2002年)での苦闘の日々を振り返る連載の4回目をお届けする。薄氷を踏むような思いで2度の審議会を切り抜けた若松氏は3人の仲間とともに相手チームと合流する。少数派での合流であったため仲間が次々と追放され、ベケウチームの最後の1人となる。そして、美談として紹介された友情物語を残し、”ワカ”のサバイバーは終了する。

◾️ゲームメーカー小野氏 

ハートFMスタジオ前でリスナーと歓談(撮影・松田隆)

 サバイバーは16人が2つのチームに分かれチーム戦を行い、6人が追放された時点で残った10人が合流して個人戦へと移る。若松氏のベケウが4人、相手のデレブが6人での合流となり、旧チームの人的な繋がりが残る中、不利な状況であるのは明らかだった。しかも、デレブには巧みな戦略・戦術を駆使するゲームメーカー・小野郷司氏(当時32歳=会社経営)や、その影響力の強さから”女帝”とたとえられる松尾純子氏(当時36歳=レストランプロデューサー)ら、強敵揃いであった。その中にあっては、最終的に優勝する蓑島恵利氏(当時28歳=ダイビングインストラクター)も目立たない存在であった。

 「恵利ちゃんは正直、ノーマークでした。いつもニコニコして、いい人というイメージだったので優勝というイメージは、あまりありませんでした」と、小野・松尾両氏の前では後の優勝者も影が薄かったことを口にする。

 その上で少数派としての合流については逆転への動きを小野氏に巧みに封じられたと振り返る。6人のデレブではあるが、小野氏らのデレブ内に存在する同盟から離脱して孤立している吉野大輔氏(当時30歳=元僧侶)という火種を抱え、数的優位をそのまま活かせる状況ではなかった。そこを突けば、少数派のベケウにも勝機はあったのかもしれないが、そのあたりは小野氏も抜かりはない。ベケウのリーダーの平井琢氏(当時26歳=リバーガイド)や若松氏にアプローチして対策を施していた。

 若松氏は23年前を振り返る。「小野さんが本当にうまかったと思います。私やタク(平井氏)に『(人数は)6対4だけど、6は一枚岩ではないんだ』と言うわけです。吉野さんが精神的にまいっていて、もう、キャパオーバーでここを乗り越えられないと思うから帰らせてあげた方がいい、みたいな話をしてきました。私にすれば、自分が残るために吉野さんがいなくなってくれるのはありがたいなという思いもあり、吉野さんを味方につけて5対5にという考えはなくなりました。小野さんはそういうところに長けていました」。

◾️次々と去っていく仲間

 こうして合流後の最初の審議会からベケウ出身者が追放のターゲットとされた。まず、高波邦行氏(当時23歳=ボクサー志望)が追放された。旧デレブ6人が票をまとめた結果である。一方の旧ベケウは平井氏が松尾氏、若松氏ら残る3人が小野氏へ投票しており、少数派の上に結束もできず、小野氏のゲームメークに完敗の形となった。

 続いて渋谷美奈氏(当時19歳=短大生)にドクターストップがかかり、投票が実施されずに離脱となった。残るベケウは若松氏と平井氏の2人。これに続く審議会ではベケウのリーダーの平井氏が追放された。合流後、追放免除チャレンジに2連勝して圧倒的な身体能力を示していた平井氏であるが、この時の追放免除チャレンジで蓑島氏に敗れたのが致命傷となった。本人は全員が受けたヘルスチェックの際に食べた食材で胃けいれんを起こし、1日遅れで島に戻った時に雰囲気が一変していてターゲットにされたことを悟ったと後に証言している(参照・”ごきげんよう” 23年後のサバイバー 平井琢(3))。

 もっともこの点、若松氏の見解は若干異なる。「美奈(渋谷氏)がドクターストップで離脱した時からタク(平井氏)は狙われていました。個人戦の最初もタクがチャレンジに勝ったからクニ(高波氏)が落ちただけだし、次もタクを落としたかったけども、また投票免除を取り、美奈がドクターストップで離脱したということです。その次に落とされたのは『強いからどこかで落とさないとね』ということです。順番です」。

◾️松尾純子氏の追放計画

若松氏追放時の人間関係

 残るは若松氏と旧デレブの6人の合計7人となり、その命運は風前の灯の状態であった。唯一生き残りの可能性があった追放免除チャレンジ(綱渡り)も、吉野氏が制してしまう。

 「小野さんから『ワカがどうしても残りたいなら、チャレンジを勝つしかないね』と言われていましたし、私が勝てた場合は和尚(吉野氏)を落とすという話でした。でも、和尚が勝ってしまい、その場で小野さんから『ワカ、ごめんね』と言われました(笑)」。

 ところがここで状況が動く。中島瑞果氏(当時30歳=珈琲豆専門店店員)が松尾氏追放を計画し、小野氏に相談しているところに若松氏がたまたま足を踏み入れたのである。追放を覚悟していた若松氏は、そこで松尾氏追放計画を持ちかけられる。小野氏・中島氏に若松氏が加われば3票。最年長の黒岩敦夫氏(当時56歳=元漁師)は小野氏と親しいため過半数は超える。

 この絶好のチャンスに若松氏は松尾氏に追放計画を伝えるという意外な行動に出る。若松氏と松尾氏はチーム戦の頃から因縁があった。追放免除チャレンジの「はしご登りリレー」では同じ区間を登り、敗れた松尾氏が手袋を若松氏の側に叩きつけた。さらに物資調達チャレンジの「夜相撲」では直接対決し、松尾氏の張り手が若松氏の顔面をとらえた。さらに「ファイアートライアスロン」(参照・若松泰恵(3) 薄氷踏む日々)では、若松氏のルール違反に松尾氏が激昂して番組に抗議してベケウチームを反則負けとさせた。

 このような因縁から両者の感情的な対立があるかのように番組では扱っていたが、合流してからは良好な関係を保っていた。松尾氏に対する思いの根底にはリスペクトや感謝の思いがあるという。「女性としてバリバリのキャリアですし、とても尊敬していました。それに対して、松尾さんは私のことは『自分のことしか考えていない』という見方をしていたのではないかと思います。私がルールを破ったせいでチームが負けて他の人に迷惑をかけたことがありましたけど、そういうことを『あなたも25歳を過ぎてるんだから、それぐらいわかるでしょ』という感じで注意されました。私は会社勤めの経験がなく上司のいる生活をしたことがなかったので、自分の成長になるようなことを厳しい言葉で言ってくれる人はありがたかったです」。

 松尾氏は若松氏から自身の追放の謀議を聞いた時点で、一緒にいた蓑島氏を誘って若松氏とともに小野氏追放へ舵を切ることもできたはず。孤立している吉野氏は頼まなくても小野氏に投票するであろうから、勝ち目はある。しかし、松尾氏は小野氏と直接話をする道を選ぶ。そこで小野氏は中島氏と投票の話をしている時に突然、若松氏がやってきたので、「話の筋を変えた」と釈明。その時点で松尾氏追放の意図はないことを両者で確認した。

 若松氏に自らが生き残る道を捨てて松尾氏に計画を教えたのはなぜなのかと聞くと、意外な答えが返ってきた。

 「番組が終わった後に中島さんからも『ワカ、あの時に話に乗っていたら、松尾さんが本当に落ちたんだよ』と言われました。でも、その頃の私には小野さんと松尾さんも、ミズッチ(中島氏)と松尾さんも仲が良さそうに見えていましたから『松尾って名前を書けば、ワカを残してあげるよ』と言われた時に『何言ってんの?』『そんなことあるわけないじゃん』と思ってしまいました。ベケウが順々に消され、タクが消され、最後に私では予想通りで面白くないじゃないですか。それで番組を面白くするように、そんな計画があったよみたいなシナリオで盛り上げようとしているのかなと考えていました。松尾さんを落とす話を嘘だと思っていましたから、松尾さんに、こんな話があるんだけど『これ、ネタでしょ?』『(番組サイドが)撮れ高ほしいんでしょ?』みたいな感じで話した記憶があります」。

 もちろん、若松氏の中には「私が本当に落としたいのは松尾さんではありませんでした。小野さんです。松尾さんと組んで小野さんを落とす方がいい」という考えもあったという。

◾️23年後の最後の言葉

 こうして松尾氏追放計画は幻に終わる。投票結果は7票中5票が投じられた若松氏が追放となり、松明の炎が消された。若松氏は皆の前で語った。

 「当然、狙われることは覚悟してこの投票に臨んだので、いろいろやったことは、まあ、私にとっては間違いじゃないと思っています。デレブが6人残ったので、この中でのせめぎ合いっていうのをこの後、楽しみに陪審員として見たいと思います」。

 さらに、審議会終了後、カメラの前で「ちょっと今、思い出すと泣けちゃうけど、動いたことは、何て言うのかな、今までと違うことだったけど、でも悪あがきしてみて、それで分かったこともあったので、今日。素晴らしい経験でしたね」と語り、涙を拭っている。

 その様子を23年後に見てもらうと「『めっちゃ覚えてるな』と思いました。最近は昨日のことも覚えていないのに、この時の経験は23年前のことだけど、よく覚えています。今、色々と聞かれてあの時はこうだった、この時はああだってと思い出せるのは、すごいなと感じます」と口にした。

◾️私の仇をとった

 若松氏の追放回では、松尾氏との友情がクローズアップされた。激しい対立を経て友情を育み、追放計画を事前に本人に知らせ、我が身を捨てて松尾氏を守ったストーリーが強調された。

 「番組でフィーチャーされたような厚い友情が私たちの間にあったかと言われると、どうかなとは思いますが、そんな友情はなかったということは絶対にありません」と振り返る。

当時の映像を見る若松氏(撮影・松田隆)

 若松氏が追放された審議会で、松尾氏は若松氏の名前を書いて投票する時に「書く瞬間までかなり迷いました。できればあなたの思うとおりの人(小野氏)の名前を書きたかったんですが、私が生き残るために、ごめんなさい、あなたを選びました。あなたの仇は絶対私がとります」と語った場面が放送されている。

 そのシーンを、若松氏は後になって知ったという。「『仇をとります』というのをテレビで見たのはずっと後です。それより私が追放された次の追放審議会では陪審員として投票結果を見ていましたが、そこで小野さんが落ちたんです。その時に思いました。『姉さんが仇を取ってくれた』って。松尾さんがこっちを見て『ワカ、やったよ』みたいな感じで合図をしてくれました。私はもう、姉さんと目を合わせて『よっしゃー』『やったー』という感じでしたね」。

 このシーンを語る時、若松氏はこぼれるような笑顔を見せたのが印象的であった。

(SNS関連投稿⇨ X

23年後のサバイバー 若松泰恵(5)冒険は続く へ続く

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です