3・11 震災当時の日記を再録(前)

The following two tabs change content below.
松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。

 10回目の3・11がやってきた。死者約1万6000人、行方不明者約2500人を出した2011年の東日本大震災から10年。今でも避難生活を続けている方は4万人を超えるという。震災の悲劇を忘れないために、10年前、震災翌日にSNSで公開した日記を再録、2度に分けてお伝えする。

■SNSで公開していた日記を再掲

地震直後、築地の公園に避難した人々

 2011年3月、僕は日刊スポーツ新聞社に勤務しながら、青山学院大学大学院法務研究科に在籍し、法律の勉強をしていた。朝から学校に行き、午後の授業が終わると出勤して午前1時ころまで働き、タクシーで帰宅する日々。

 3月11日は授業がなく、昼過ぎから日刊スポーツ本社ビルの4階で勤務をしており、午後10時過ぎに帰宅する予定だった。14時46分に突然の揺れを感じた。それ以後の様子を当時、SNSで一部の人に公開していた日記を書き、翌12日に公開した。当時の文章を読みやすくするために見出しを入れ、プライバシーに関わる部分は省略して再録する。

<2011年3月12日13時55分投稿>

タイトル:地震

 すごい地震だった。3月11日は会社で午後3時から定例の会議が予定されており、そろそろ会議に行こうかという時に激しい揺れ。ビルが大きく揺れた。

 その後も大きな揺れが2度あり、付近の会社の人は近くの公園に避難した。 

 会議は中止になって、その後は余震が続く中、不安な気持ちで仕事を続けた。 

■会議は中止、コンビニに客が殺到

 電車はすべてストップして帰宅できないと考えた人がコンビニに殺到したため、商品棚のおにぎりや弁当、サンドイッチなどはすぐに売り切れ。 

地震当日、半蔵門線は早めに運転を再開した(写真は半蔵門線も通る九段下駅)

 僕は午後10時30分に仕事を終えて会社を出た。会社に宿泊することもできたが、朝、自宅に戻れる保証はないので、無理をしてでも帰ることにした。都心部の会社から多摩地区の僕の家まで直線距離で20キロ。歩けば5時間程度かかる。 

 会社を出た時点で動いているのは地下鉄だけで、大江戸線、銀座線、半蔵門線。銀座線で渋谷に出るか、大江戸線で新宿に出るか迷ったが、会社を出る直前に運行を開始した銀座線は人が殺到したために再び停止したというので、大江戸線へ。

 最寄駅に行くと改札で入場規制。20分ほど待ってようやく乗れたものの、時間調整で動いたり止まったりで、8つめの駅である新宿駅に到着したのが11時45分ころ。 

 新宿駅から僕の家まで16キロ程度。そこから甲州街道を徒歩で下り始めたが、道路は大渋滞。夜中の甲州街道はサラリーマンやOLがゾロゾロと歩く異様な光景だった。制服を着たカップルの高校生もいたのには驚かされた。 

■井の頭線・京王線、運転再開の報に小躍り

 新宿-初台-幡ヶ谷と、1つの駅の間隔がこれほど長いとは…。自宅につくのは午前4時頃だろうと思って、ひたすら歩いた。幡ヶ谷のあたりで自宅に電話をしようと思ったが、当然通じず。しかし嫁さんからメールが入っていた。 

 「井の頭線・京王線、運転再開だって」 

 おお! 京王線が動いている! そこで幡ヶ谷駅に向かおうと思ったが、京王線は京王線と京王新線があり、幡ヶ谷は京王新線の駅だ。次の笹塚に行くとどちらも止まるから笹塚で乗ることにした。こうして笹塚から各駅停車に乗って、僕の住む町の駅に到着したのが午前1時過ぎ。

 いつもならタクシーに乗るところだが、ここが長蛇の列のため諦めて徒歩で30分かけて自宅へ。帰宅が午前1時30分。会社を出てから3時間、通常なら1時間とちょっとだが、とにかく帰れたのだから文句は言えない。 

 帰宅して風呂に入り、その後、ビールを飲んで軽い食事をとった。嫁さんには京王線運行再開のメールが非常に有効だったことを伝えた。知らなかったら甲州街道を明け方までトボトボ歩いていたことだろう。全くこういう時の情報は貴重だ。 

■被災された東北の方々を思うと胸が痛む

 家はそれほど被害は受けていなかった。食器がいくつか割れた程度。

(略)

 これぐらいで済んだからまだ良かった。被災された東北地方の方々のことを思うと胸が痛む。一刻も早い救出、そして復興へと向かってほしい。…今日も東京は余震が続いている。 

"3・11 震災当時の日記を再録(前)"に8件のコメントがあります

  1. 月の桂 より:

    東日本大震災から10年。
    震災絡みのニュース一色だろうと、今日は情報の一切を遮断して過ごしました。

    被災者の考えも様々で、私は、被災者と呼ばれることに抵抗があり、あの震災は自分の記憶からそっくり消したいと思うタイプです。
    無かったことにしないと、辛過ぎて前に進めないからです。これは私個人の感性の話であって、あの震災を後世に伝え、教訓にしていかなければならないとも思っています。
    松田さんの記事から、都心の混乱状態も知ることが出来ました。帰宅難民は、都会だけの問題ではありませんね。職場が遠方であれば、誰にでも起こり得ることです。
    松田婦人、メールでの情報提供!!
    (*^ー゚)b グッジョブ!!でしたね!!

    さて、ここからは私の体験の一部です。
    10年前は、夫の転勤で仙台に移って間がなく、居間の壁に大きな市内地図を貼り、主だった施設の場所などを覚えていた頃でした。
    3・11、突然の激しい揺れに立っておれず、部屋の反対側に流されていました。
    防災対策をしていたせいで、破損物で怪我をすることはありませんでしたが、何が起こったのか、暫くわからず放心状態でした。

    電気もガスも止まり、情報源はラジオのみ。
    救急車のサイレンやヘリコプターの音が絶えず、窓から見下ろす新幹線の線路は壊れているようにも見えました。今、何をすべきか…混乱する頭の中を整理することで精一杯でした。夜は、停電で暗闇のせいもあり、恐怖心と寒さでガタガタ震えながら夜明けを待ちました。月が、やたら綺麗だったのを覚えています。

    数日後に電気が復旧。その時、テレビで見た福島原発の爆発映像に衝撃を受けました。
    津波で流される建物、人、車、とんでもないことが起きたのだと実感しました。

    避難所は利用しなかった為、物資の支援も受けられず、何から何まで自分で調達するしかありませんでした。土地勘も無い中、大きなスーパーを探し、開店の確約は無いものの、もしかしたら買えるかも…と賭けのような気持ちで早朝5時頃から連日並びました。
    早朝に行っても既に大勢並んでいるのです。
    寒さで手足の感覚が麻痺し、顔も凍ってしまうような中、昼頃に入店出来たものの、購入数の制限もあり、日参するしかありません。

    生きる為に羞恥心の三文字は捨てましたね。
    想像してみて下さい、私の姿を…(笑)
    行商人のように荷物を背負い、キャリーバスケットを引き、両腕に袋を持ち、自宅まで40分くらい歩きました。傘は持てないので、雪に降られたら濡れ鼠。酷い有り様です。
    余震もあり、マンションのエレベーターは停止のまま。大量の荷物を抱え、我が家を目指し、休み休み、階段を登りました。
    最上階の方は、一階のエントランスに寝袋を持ち込んで過ごしていました。管理規約違反ではありますが、非常事態でしたからね。

    ガスの復旧まで、1ヶ月超。
    水も節約しなければならず、ずっと清拭しか出来ませんでした。身内も親しい友人もおらず、孤軍奮闘状態でしたが、人間は頼るものが無いと、どこからか力を出すんですよね。
    非常時は不在になる職業の夫は、当てに出来ません。私が頼れるのは、常に自分だけ。
    本当に頼りになる私…(笑)

    全国の皆様からのお励ましも、復興に向けた私達の大きな力となりました。今、こちらは震災の面影も無い程、元に戻りましたが、まだまだ復興途上の地域もあります。

    1日も早く、皆が心穏やかに暮らせる日が来ることを願っています。

    1. 松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵 松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵 より:

      >>月の桂様

       コメントをありがとうございます。

       仙台は大変だったんですね。東京は震度5強でしたが、東北の方のご苦労に比べたらという感じですね。ただ、浦安は液状化現象などで大変だったようです。

       東日本大震災から10年後に新型コロナウイルスで苦しんでいるとは、夢にも思わず。大変な時代ですね。今から思うと昭和の終わりは平和だったと思います。こういう形で震災の記憶を残し、後世に伝えるのも我々の使命なのかと思います。

       貴重なお話をありがとうございました。

  2. 20524 K1C 金井裕紀 より:

    この出来事は絶対に忘れてはいけない。
    復興されていない地域は、一日でも早く復興されることを願っています。そして、実際にこの地震を体験した我々が、起きたことや避難対策など色々な事を未来の人に伝え、役立てていくことが大切だと思いました。

    1. 松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵 松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵 より:

      >>20524 K1C 金井裕紀様

       コメントをありがとうございます。

       いまだに避難生活を続けている人が4万人もいらっしゃる、行政は何とかできないのかという気持ちになります。

       そして、この悲劇は決して忘れてはならないと思いますし、被災地以外の人も常に注意を怠らないようにすべきと考えます。若くして亡くなられた方がたくさんおり、そういう人たちのためにも、残された我々は精一杯前を向いて生きていかなければと思います。

       金井さん、新年度もどうか頑張ってください。

  3. 野崎 より:

    反原発としての、忘れてはならない。

    あの日を忘れない、福島の震災に対してのNHKのキャッチフレーズである。

    10年目としての番組のみならず震災以降継続して福島の被災をNHKは放送し続けている。

    花は咲く(正確な歌としての名称かは確認していません)という歌を作った(NHKが作成したかは未確認にですが一応。)
    この歌を芸能人たちに連携して歌わせるシーンを震災以降継続して放送している。

    私には何とも言えない違和感がある。
    阪神淡路大震災の場合、この様なあつかいはあっただろうか、無論、震災としてその質はことなる。

    NHKで東北の震災を語る時、芸能人達が涙する、悲痛な面持ちで語る。
    昨日も西田敏行氏が出演し涙ながらといってもよい面持ちで語った、他の出演者は涙した。

    阪神の被災者へはどうなのだ、熊本は、拉致被害者へはどうなのだ。

    西田氏や、花は咲くを歌う芸能人たちは無償での出演なのだろうか、、有償ならば自己の為の利用でもある。

    花は咲くを歌った、その後はどうなのだ、あの日を忘れない、の思を抱いているか、何らかのことをなしているのか、

    芸能人は演技する人達である、つまり嘘を演じる人達である、彼らに違和感をもつ。
    花は咲くを歌う、TV出演で涙する、それが無償の行為であったとしても違和感を覚える。
    無償であってもTV出演は芸能人としての宣伝になるからだ。

    彼ら芸能人を使い歌をうたわせ涙させるNHKに違和感がある。

    福島の為、復興を願うならなぜ風評被害を打ち消す情報を発信しなかったのだ。
    児童の甲状腺癌に関してもデビデンスのある見解がある。
    NHKは健康情報としての番組があり疾病に関し専門的な情報を発信しているではないか。

    汚染水処理、海洋投棄に何ら問題がないことを、その情報を発信しないのだ。
    昨日の放送では海洋投棄に問題があるかのような印象内容だ、不問ということはそうなのだ。問題があるのならば明確に提示すればよい。
    (私は海洋投棄に関し調べた限りにおいて問題は無いとのスタンスです。)

    あの日を忘れない、とは、原発の事故を忘れるな、ということだ。
    原発の危険性を忘れるな、原発は危険だぞ、ということだ。
    NHKは反原発なのだ。

    ならばエネルギー問題に関して公共放送として内包する問題を社会に提示すべきだ。
    すべき、というのは逆説的に、原発の危険性を印象操作的に喧伝している、ならばはっきり明確に問え、ということだ。

    芸能人に戻る。
    坂本龍一氏も広義に芸能人の一人であろう。

    たかが電気と言い放った坂本氏、たがが電機ではないことは御当人は百も承知だ。
    その発言は当然問題になり坂本氏は注目される、その計算である。
    見抜かれたか、さほど問題とはならなかったようだ、それとも坂本氏をかつぐ反原発派は坂本氏を叩くわけにはいかなかったか、

    芸能人は福島を利用するのである。
    そしてNHKも反原発に福島の被災者達を利用するのである。

    御返信は不要です。

    1. 月の桂 より:

      野崎 様

      初めまして。
      いつも遠くから、野崎様のコメントを拝読しております。(恐れ多くて、近くには行けそうもないと言う意味です)

      〉阪神の被災者へはどうなのだ、熊本は、拉致被害者へはどうなのだ。

      *****
      仰る通りで、東日本大震災の被災者だけ、特別扱いしているように感じます。3・11被災経験者は、ずっと、「被災者」でいろと言われている気がします。可哀想な人と同情され続けるのは苦痛です。発災直後は、多くの皆様に助けて頂きましたが、それぞれ、自らの足で立ち上がり、踏み出しました。
      私は、私達被災経験者が自立することが、皆様の温情へのお返しだと思っています。自然災害は、多くの地域で発生するようになりました。災害経験者としてのノウハウを持ち合わせている私達が、今度はお力になれるはずです。

      毎年、3・11には震災絡みの特集が組まれます。復興途上、特に福島の皆様の窮状は忘れてはならないことです。
      ですが、それは通年であって欲しい。3・11が来たら思い出すのではなく、自分のこととして、日々考えて頂きたい。それが、「忘れてはいけない」の真の意味でしょう。
      福島原発は、都会の電力を供給する為の施設だったのですから。福島の人達が使う電力ではなかったのですから。
      あの日を忘れないと言うなら、福島産直をもっと利用して頂きたい。

      被災地見学ツアー参加者の中には、壊れた建物の前で記念撮影される方々もいます。建物に自分達が入り込む必要があるのですか?しかも、笑顔で。
      多くの命が喪われた場所なのに。
      花は咲くは、素敵なメロディーですが、私には同調圧力にも感じます。
      被災地産の物は、食べない、買わない、でも、歌は歌います… うわべだけの激励メッセージのように感じます。

      ですので、3・11には情報を遮断することにしています。お涙頂戴を押し付ける番組は、鬱陶しいだけです。
      お涙頂戴したい被災者もいれば、私のように被災者の刻印を重く感じる者もいるのです。
      あの日のことを伝えたい人はそうすればいいし、思い出すのが辛い場合は、無理に向き合う必要はないと思います。

      東日本大震災も、被害の程度、生活環境等々で、被災者の受けたダメージも現在の状況もニーズも様々だということです。

      今回の野崎様のコメントには、完全同意です。

  4. 野崎 より:

    月の桂 様

    すぐにお返事できず大変失礼しました。

    ビックリして1メータ位とびあがってしまう思いでした、エッ、、と絶句、、、
    松田さんのこの場をお借りして分かったような偉そうなことを偉そうにコメントさせて頂いております。

    直ぐ御返事すべく月の桂様への返信を記して見たのですが、被災者の方へ、私としてはどうしても宗教的意味合いを含むものになり御返事するのに躊躇しました。

    それはエラソ~で上から目線的な感じ、諭すような感じを含め又ある違和感を多くの方がもたれると思います。それで今までお返事できませんでした。
    政治及び宗教の話は社交上タブーとされる所以です。

    何故あの震災があり多くの人が被災したのか、石原慎太郎氏は天罰といい非難をあびました。
    天変地異を天罰とする発想は昔からあり、それは直接被災者に向けられたものではありませんね、
    次元のことなることです、石原氏非難に日本人の劣化を見る思いがしました。

    しかし、やはりこの次元にて問題を見る必要があると真に考えます。
    それは広義に人が生きるということにおいてもです。

    いつかまたお話しできればと思います。

    失礼しました。

    松田さんへと同じく。
    御返信は御不要です。

  5. 月の桂 より:

    野崎 様

    お返事、有り難うございます。
    返信不要とのお申し出ですが、ちょこっとだけご挨拶させて下さいませ。

    〉天変地異を天罰とする発想は昔からあり、それは直接被災者に向けられたものではありませんね

    *****
    発言の真意を知ろうとせず、「単語」へ過剰反応する人が多くなったような気がします。
    こちらのコメント欄もそうですが、書くことを職業にしていない中での発言には、時に言葉足らずだったり、表現が不適切なこともあろうかと思います。文章の一部分を取り上げて反応するのではなく、コメントされた方の真意は何だろうと考えるのも、読み手としての思いやりなのかなと思います。
    お前が一番不適切な発言しているだろ!!と、どこからか聞こえて来ました(笑)
    今日は、この辺りで失礼させて頂きます。
    また、どちらかでお話出来ましたら幸いです。

松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です