トランスジェンダーの女子ラグビーに一考の余地?

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。

 サンケイスポーツが、トランスジェンダー選手による女子ラグビーへの参加に前向きととれるベテラン男性記者のコラムを公開した。参加禁止は一方的な「男性目線」ではないかと考え、現役の選手の前向きなコメントを取り上げて一考の余地ありとするもの。選手の発言の真意を理解せず、女子スポーツ全体の存亡に関わりかねない点に記者の考えが及ばないのは残念と言うしかなく、そのようなものに一考の余地などないと当サイトは考える。

■2人の女性アスリートの言葉

トランスジェンダー選手の女子競技参加は危険を伴う

 問題のコラムはサンスポ電子版に2月27日公開された記事で、1983年入社という田中浩記者が執筆したもの。それによると、2人の女性アスリートが対談するイベントで、同記者がトランスジェンダー選手の女子競技の参加についての考えを聞いたことがきっかけになっている。

 アイスホッケー女子で五輪3大会に出場した、久保英恵氏(40)は「構わないのではないでしょうか」と認容する考えを示し、ラグビー女子で、7人制リオデジャネイロ五輪代表の中村知春選手(34)は「ぜひ、自分のチーム(ナナイロプリズム福岡)に来てほしい。来てほしいし、そういう方がいるチームと対戦したいとも思います。」と、こちらも前向きな姿勢を示した。

 この2人の意見を聞いた田中記者は「トランスジェンダーの女子競技への参加禁止というのは、男性目線の一方的な考え方なのではないかとふいに感じた。」そうで、「安全性については慎重に吟味しなければいけないが、中村のこの言葉は一考に値すると思う。」とまとめた(サンスポ電子版・「【ベテラン記者コラム(416)】トランスジェンダー選手の女子競技への参加禁止は一方的な「男性目線」なのかもしれない」、2023年3月4日閲覧)。

 田中記者は文中、スコットランド協会がトランスジェンダー選手の女子の試合への出場禁止を発表し、他の協会、ワールドラグビーも同様の禁止措置を決め、その根底にはパワーやスピードの違いで安全性が損なわれるという考えがあることを示している。

 トランスジェンダー選手の女子の試合への参加が危険を伴い、さらに生物学上の男子が出場可能となれば女子スポーツ全体の存続の危機があることは理解していると思われるが、現役の選手らがコメントすると、一方的な男性目線かもしれないと自分の考えが揺らぎ、一転して選手の参加に前向きなコメントを一考の余地があると締めているのである。

■スピード10%減、パワー20%減

 スポーツの世界で男女が分けられているのは、男女の間には才能や努力だけでは埋められない生まれついての差異があり、それなのに両者を同一に扱えばスポーツの根幹の理念であるべき「競技の公正さ」に疑義が生じるからである。どれだけ優れた女子選手であっても、女子であるという時点でパワーやスピードで男子に劣るのは否めない。

 たとえば、陸上100mの世界記録は男子9秒58、女子10秒49である。平均速度で考えると、男子が10.44m/sに対して女子は9.53m/sで、男女の速度比は100:91.3となる。

トランスジェンダー選手の女子競技参加は不公正では?

 ウエイトリフティングで男女ともに存在する69kg級の階級の合計重量の世界記録で比較すると、男子359kgに対して、女子は286kgで、男女の重量比は100:79.7となる。

 非常に大雑把な表現をすれば、短距離のスピードは男子に比べ女子は10%減、パワーは20%減。この差が生物学的なものに由来するのは明らかで、トップ選手になればその差異は埋めようがないのは容易に想像がつく。

 女子サッカーのワールドカップで優勝したなでしこジャパンのFWだった永里優季選手は2020年秋、男子チームに混じって試合をしたが、所属先は神奈川県2部リーグであった。女子サッカーの世界で頂点に立ったチームのFWも、男子に混じると互角以上に戦えるのは県の2部リーグレベルまで落とすしかないことを示している。それでも永里選手の挑戦に多くの人が拍手をしたのは、生物学的に負ったハンデを自らの才能と努力で克服し、性差を逆転するための果敢なチャレンジであったからであろう。

■トランスジェンダーの選手参加で発生する諸問題

 このようにトップレベルの選手で男女差がある中、性自認女性を理由にトランスジェンダーの選手を女子の試合に出場可能にした場合、さまざまな問題が発生する。ラグビーやアイスホッケーのように激しいコンタクトを続ける競技の場合、女子選手の身体、時には生命にすら危機が及ぶ。

 競技の結果も、女子では世界トップのチームが、本来なら足元にも及ばない技量のチームが生物学上の男子選手を加入させることで逆転することも可能になってしまう。そうなると女子チームの選手はまともに努力することが馬鹿馬鹿しくなってしまうに違いない。それゆえ、ワールドラグビーはトランスジェンダー選手の女子の試合への出場禁止を発表したのである。

 ところが、田中記者が取材した中村知春選手は、歓迎の意向を示した。ここで中村選手のコメントを紹介しよう。

「そういう苦労をされてきた方から学べることは絶対に多いと思う。マイノリティーの方々の感覚を受け入れていかないとラグビーは成長しない。ぜひ、自分のチーム(ナナイロプリズム福岡)に来てほしい。来てほしいし、そういう方がいるチームと対戦したいとも思います。世界で戦ってきた相手の中には190センチを超える選手がいたし、120キロ以上の選手もいました」(前出のコラム)。

 中村選手の摘示は、性的マイノリティが、マイノリティゆえに苦労してきたであろうから、そういう人たちから人間的な面を含めて学べるということが1つ。もう1つは、過去の対戦相手に男子選手並みの大型選手がいたという事実である。

 前者は競技の公正さや女子選手の安全については触れない、要はネガティブな面は触れずにポジティブな要素を挙げただけである。後者は、前述のように男女にはパワーとスピードに大きな差異があるため、男女でサイズが同じであっても、同一には比べられないという視点が抜け落ちている。

■中村選手の真意は”多文化共生”

 このように中村選手の発言は、トランスジェンダー選手の女子競技参加のリスクに触れないか、あるいは男女に存在する差異に目をつぶり同一視した上でのものであるというのは分かる。記者なら当然、「それは女子選手のリスクを過小評価していませんか?」と聞くべきであるし、記者でなくても聞くであろう。

トランスジェンダー選手の女子競技への参加は大きな問題を孕む

 そうすれば中村選手も「要は、LGBTQに対する差別は極力なくそう、LGBTQを理由に排除するような考えはやめようということです」とその趣旨を説明すると思われる。実際、当該記事には、イベント後の中村選手の話として「仲間外れにするより仲間として迎え入れることの方が大事だと思うんですが」(前出コラム)と話したと記されている。

 ここまで選手に言われても、田中記者は「今後、日本でもトランスジェンダーに関する論議が出てくるだろう。もちろん、安全性については慎重に吟味しなければいけないが、中村のこの言葉は一考に値すると思う。」(前出コラム)としているのである。「この言葉」が指しているのは直前の中村選手の「仲間として迎え入れることの方が大事」を指しているのは明らかで、それに安全性の吟味を加えているのであるから、「この言葉」をトランスジェンダー選手の参加を認めることと捉え、それを一考の余地ありとしていると判断すべき。

 安全性に関してはワールドラグビーなどの決定がその答えであり、いまさら慎重に吟味する必要などない。中村選手の後段の発言は異質さを理由に排除すべきでないという、いわば多文化共生の本質的な部分を心に留めるべきであり、その趣旨であろう。

 そもそも安全性や公正さを保持するための排除は合理的な区別であり、差別ではない。田中記者は、あらゆる取り扱いに関して均等に扱う絶対的平等を実現すべきと言っているに等しく、事実上の差異に対応して異なる扱いを認める相対的平等を否定しており、法的、社会的には論外の主張である。

 ジェンダーの問題がこれだけ世界的に話題になる中、一選手の言葉でベテラン記者が考えが揺らぎ、その後の選手の説明も、その真意を理解できていないのは記事から伝わってくる。同じスポーツ新聞出身者として、このレベルの原稿が1983年入社の大ベテランから出されること、それを堂々と掲載する媒体があることが残念でならない。

    "トランスジェンダーの女子ラグビーに一考の余地?"に7件のコメントがあります

    1. 野崎 より:

      LGBにTを加えたことは過ちであった!というLGBT擁護派、すなわち左派、リベラルからの主張があった、今ソースを明確にできない。

      しかしこの問題に門外漢であっても同性愛と性同一性障害とは別であることはそれなりに理解できる。

      過ちであったと、、って左派、リベラルの内ゲバ、フェミニストの内部からの問題提起がある。
      過ちも何も、そもそも奴バラに、まがりなりとも体系化された思想は無いのである。
      よって多様性なる抽象的言葉、表現を武器として用い、ごまかし戦闘を続ける。

      又LGBにTを加えた事により奴バラに有利な論理(?)を構築できもしている、ある言葉と併用することにより、
      その言葉を多様性という言葉の武器と併用して社会にエートス(社会集団・民族などを特徴づける気風・慣習。習俗。)、ある種の空気を作り上げる よってQも加える。

      それは差別という言葉だ、Tを差別することは許されない、それを拡大させLGBを受け入れないことは差別だ!とのエートスを形成することに一応成功している。そしてそれを多様性に包括させる。
      差別は許されない、多様性のある社会を~~と

      日本はすでに森発言以降、識者は女性は~だ、とは言えない社会となっている。
      LGBTを受け入れないことは差別だ!との空気もほぼ形成されている、若い者達に、

      この記者も中村なる選手もこのエートスの形成に影響されている、されたのであろう、またはセミファシストとしての要件、その資質を有しているのであろう。

      エートスなどと知識人風にこの言葉を用いているが、空気、同調圧力などより概念を明示できるのであえて、流行だと軽すぎ~

      又エラソ~に、比較文化論において日本人は宗教及び規範を有しないとの評価があるがその通りだ。
      同性愛、中絶に関して欧米においては明確にそれを否定する根拠がある。
      何も無い日本人はエートスに簡単にやられる、それを日本人の柔軟性などと自画自賛する主張もあるがこれは大きな問題を発生させる、発生させている、

      話は飛躍するが、
      統一教会をここまで肥大化させた責任の一端は、一端ではなく全責任は日本のキリスト教界にある。その論拠は割愛。

      同性愛、LGBT問題に関して日本のキリスト教会は旗幟鮮明にすべきであろう。

      というか日本のキリスト教世界は、すでに左翼に乗っ取られている、実際クリスチャンなどほとんど存在しないのだ、その意味でも旗幟鮮明にはすまい、、、

      ここはひとつイスラム教にお出まし願いたい。
      多様性はどうなる、、キリスト教界の中から、そしてイスラム教界の中から同性愛を否定する主張、同性婚を否定する主張がなされたら、それは差別だ! お前たちは差別主義者だ!
      とレッテル貼りをするか?

      Tのスポーツにおける問題は男性と女性は全く別の生き物である、に帰着する。
      それは肉体的優位性の差みではない。(この優位性の条件を緩和するために階級、ドーピング、筋肉増強剤等が禁止されているのであろう)
      その性故のスポーツ、その表現が可能なものがあるのだろう。
      選手もそれ故己の性を表現する。その種目へTを参加させないことは差別だとでも、、

      もっともT自身が参加したがるか? 種目によりTが参加したがる意味は何なのか?
      LGBT差別反対の為の政治的パフォーマンスではあるまい。

      ご返信は不要です。

    2. kj より:

      久保・中村両選手の発想の根底には「かわいそうなトランスジェンダーたちに寄り添ってあげたい」という親切心があるのではないでしょうか。NHKをはじめ左翼メディアの報道のほとんどが、トランスジェンダーを社会に受け入れてもらえない絶対的弱者みたいに取り上げていますから、それに影響されたものと私は推測しています。
      いまLGBT先進国で起きている、自称「心は女」のトランスジェンダーが女子刑務所で女囚をレイプしたり、女子更衣室で男性器を隠そうともせずに着替えしているという事実を知れば、久保選手らも考えを変えるかもしれません。

    3. ym より:

      これは凄く単純に考えていいと思う。いくら精神的に女でも生物学的に男なら女子競技に出ちゃあかんやろ。
      行ってしまえば一人パワードスーツ付けた女が何もつけてない女の中に混じるわけだから、公平性も何もあったもんじゃない。

    4. pomme より:

      考えが揺らぐとは腰抜けな記者さんですね。
      男女には身体的な力の差があるのですから、参加を認めるのはアンフェア。私は女性ですが参加には反対。
      スポーツの世界にまで心の性を持ち込まないで欲しい。多様性を認めるにしても越えてはならない領域はあるはずです。私達女性は、性自認が女性だという外見も身体機能も完全に男性の人達にどんどん追いやられていく気さえします。Tを理解して欲しい!ばかりで、こちらの不安や恐怖心(女湯や女子トイレ利用)は理解しようとしない。すごく暴力的な要求に感じる。
      性自認が男性の人からの男湯や男子トイレに入りたいとの声は聞こえて来ない。スポーツもしかり。
      これはなぜなんでしょうね。

    5. オーバーカッセル より:

      昨今のLGBT(Q)の議論には違和感を感じています。

      デジタルに判別出来る体の話とアナログの心の話が混在しているからです。特に心の話は個人が宣言すれば良しとすると後で副作用的に諸問題が起きるのは明らかでしょう。また人の心は変化するものなので性的指向と嗜好との境界線の判断も難しいところです。

      私は個人的には差別する気持ちはありませんがTPOをわきまえる必要はあると思います。例えばトイレ、風呂、更衣室等は体の性別によって判断されるべきです。スポーツも同様でしょう。

      海外に比べて日本は遅れているという話もありますが、それぞれの国の文化や歴史、考え方が違うは当たり前です。日本の常識は世界の非常識という話は多々存在しています。良し悪しはともかくコロナ騒動でのマスク着用の違いもその一つでしょう。

      LGBTそれぞれの異なる状況や問題を冷静に考え、然るべき対応がなされることを望みます。ただ騒ぐだけ、政治利用、特別な利権の発生は絶対に避けなければなりません。

    6. 匿名 より:

      反対したら差別主義者のレッテル貼りされそうだから肯定しかできなさそう…

    7. 野崎 より:

      >反対したら差別主義者のレッテル貼りされそうだから肯定しかできなさそう…

      若い人たち(若い衆のほうがいい~)の間に同性愛に理解をしめさないと、それは差別主義者であるかのような空気を感じる、と何回かコメントしました。

      札幌の女装生首殺人事件の被害者に関し報道が少ない、無い、との指摘がネットで散見できます。
      その根拠として女装を指摘、評価すること自体が差別となる、Tを差別するな!に女装趣味が包括され批判されっるリスクがあるから、という主張があります。
      このリスクの主体はメディアになる訳ですがメディアが積極的に報道しない理由は別にあると考えます。

      いずれにせよLGBT(理解増進)に批判的な者は差別主義者だ。との空気がより強く形成されそれを感じている人たちが増えていると思います。

      ツィッターに新機能、コミニュティノートが採用され左派リベラルのプロパガンダを粉砕している、との声があります。
      各個撃破に勝利しても総体としての戦いにおいては左派、リベラルファシスト共は着実に駒を進めている。
      KY、空気を社会に作り上げることに成功している。

      しかしながらこの自由社会を何としても守らねばならない、書籍、大衆の狂気が現す米国の状況にしてはならない。
      各個撃破にて空けた一穴から亀裂を生じせさしめ敵、ファシストの牙城の根本を崩壊へ導くのだ。
      山本太郎、大石晃子等サイコパスファシストを地道に記事に取り上げ戦う松田氏に期待している。

      ご返信は不要です。

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