パリ五輪ポリコレ開会式と仏の差別政策
松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵
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パリ五輪の開会式に批判が集まり、国際五輪委員会(IOC)が28日に公式に謝罪した。ダヴィンチの「最後の晩餐」の構図をオマージュした演出がキリスト教関係者の怒りを買い、国内からも批判が集まりIOCも鎮火に乗り出したもよう。謝罪した部分以外にも多様性や反権力への強い政治的メッセージを含む演出があり、五輪の政治利用にはうんざりという人は少なくないと思われる。
◾️血まみれのマリー・アントワネット
開会式での演出でまず驚かされたのは、断頭台で殺害された王妃マリー・アントワネットの血まみれの頭部が歌うものを示したと思われるもの。世界中の人、まして子供も目にするであろう中、あまりにグロテスクなシーンと言うしかない。
さらに最後の晩餐をオマージュしたものと思われる演出で、イエス・キリストとその使徒たちの代わりにドラァグクイーン(女装パフォーマー)らを登場させ、全身を青く塗り、ほぼ全裸でギリシャのワインと快楽の神であるディオニュソスに扮した俳優が登場するシーンも見せた。
これに批判が殺到し、フランス司教協議会は27日に声明で「キリスト教を嘲笑する場面が含まれていた」と批判した(読売新聞オンライン・五輪開会式の一部演出に反発多数、「最後の晩餐」を連想させるショーに「キリスト教を嘲笑」)。
これに対してIOCは「明らかに、いかなる宗教団体に対しても不敬の意図は全くありません。もし誰かが不快に感じたのであれば、もちろん本当に、本当に申し訳ありません」と謝罪するに至った。
もっとも謝罪は宗教に関する部分に限定されており、しかも、宗教を貶める意図などなく、そのように取られたのであれば申し訳ないというレベルにとどまっている。
IOCの謝罪の前に演出を担当したトマ・ジョリー氏(42)は取材に答えている。まず、最後の晩餐に似たシーンは最後の晩餐からインスピレーションを得ているわけではないこと、異なる性的および性別アイデンティティの寛容の促進を意図したことを明らかにしている。
「オリンポスの神々に関連した大きな異教の祭りをやりたかった。私の作品には誰かを嘲笑したり、貶めたりする意図は全くない。人々を結びつけ、和解させるような式典を望んでいたが、同時に我々の自由、平等、博愛の共和主義的価値を肯定する式典も望んでいた。」
また、マリー・アントワネットの演出は「確かに、この死の道具であるギロチンを称賛していたわけではありません」としている(以上、France24・Opening ceremony choreographer denies ‘Last Supper’ parody at launch of Paris Games から)。
◾️王妃は祭りの生贄と同じか
最後の晩餐をオマージュしていないというのもにわかには信じられず、仮にそうだとしても、結果として最後の晩餐に似ていることでキリスト教の信者を侮蔑しているように思える。
ジョリー氏は「自由、平等、博愛の共和主義的価値を肯定する式典」を目指したとしているが、自由の象徴が王妃マリー・アントワネットを断頭台に送ったことなのか。王妃の殺害がフランス革命の1つの象徴であることは認めても、それを平和の祭典である五輪でことさら強調することに違和感を覚える。マリー・アントワネットを祭りの生贄の山羊と同様の扱いをすることに耐えられない人は少なくないはず。そのような価値観を多くの人に押し付けたに等しいこと、五輪というイベントの場で政治主張することが許し難いと感じたから、多くの人が批判の声を上げたのではないか。
「異なる性的および性別アイデンティティの寛容の促進」はすなわち多様性の尊重を指すと思われるが、21世紀以降のフランスの政策は多様性を認めない方向に進んでいる。たとえば、2004年に公立学校でスカーフ禁止の法律によってムスリムの女性がヒジャブを着用できなくなった。さらに2011年には公共の場で顔を覆うものの着用の禁止がなされており、街中でもヒジャブは使用不可とされた(ヒューライツ大阪・特集 なぜスカーフ論争なのか)。
2023年末には厳格な新移民法案が採択され、移民に対して厳しい内容の政策が打ち出されている(Forbes・フランスで厳格な新移民法案が採択。2024年は欧州も政治の年になる)。
要は現在のフランスは移民は受け入れない方向で、異なる習慣を持つ人々にその習慣を捨てるように求めているわけで、開会式の演出とは異なる方向へと進んでいるように見える。穿ったものの見方をすれば、政府のそうした政策を覆い隠すように五輪の場で多様性の尊重を打ち出しているのではないかと思える。
◾️”無敵”の多文化共生
日本人はあまりピンとこないかもしれないが、キリスト教やイスラム教、ヒンドゥー教の信者は生活に宗教が深く根ざしており、それが原因で世界各地で摩擦や衝突が生じている。そうした事態を防ごうというのが多文化共生の考え方で、異なる文化や習慣を持つ人々を理解し受容し、共に生きようという趣旨である。
著書「悪魔の詩」でイスラム教を冒瀆したとしてイランのホメイニ師から死刑を宣告されたサルマン・ラシュディ氏の事件はそうしたことを象徴する事案である。さらに2015年には預言者ムハンマドの風刺画を掲載したパリの本社を置く週刊風刺新聞の「シャルリー・エブド」がイスラム過激派のテロリストに乱入され、12人が殺害されている(参照・朝日の二重基準の動かぬ証拠 トリエンナーレ社説)。ジョリー氏はイスラム教への冒瀆は怖いのでやめておいて、キリスト教ならいいとでも考えたのであろうか。このあたりの二重基準に非常に心地悪さを覚えるのは筆者だけではないはず。
ユネスコ総会で採択された「文化的多様性に関する世界宣言」では以下のように定められている。
【第4条】ー文化的多様性の保障としての人権
文化的多様性の保護は、人間の尊厳への敬意と不可分の倫理的急務である。文化的多様性の保護とは、特に少数民族・先住民族の権利などの人権と、基本的自由を守る義務があることを意味している。何者も文化的多様性を口実として、国際法によって保障された人権を侵したり人権を制限したりすることがあってはならない。
マイノリティへの理解、保護を訴えているが、後段では文化的多様性を口実にした人権侵害、人権の制限を行うことはならないとする。これはマイノリティの側もマジョリティを尊重すべきと読めるし、その趣旨であろう。この点が五輪の演出からはすっぽりと抜け落ちているのではないかと思えてならない。
既存のキリスト教的価値観を打ち壊せ、マイノリティこそ正しい、LGBTQは正しい価値観に沿ったもの、我々こそがマジョリティになるべきと言わんばかりの演出に人々が反発を覚えるのも当然である。「主張するのは勝手でも、五輪でやることはないじゃないか」というごく当たり前の声が彼らの耳に届いていないであろうことがかなしい。
◾️もはやフランスの時代ではない
こうしたフランスの”ぶっ飛んだ”演出はアール・ヌーヴォーやヌーヴェルヴァーグの国らしいと言えるのかもしれない。しかし、世界の文化をフランスがリードしていたのは遠い昔のこと。
1960年代ならぶっ飛んだ演出も日本の自称文化人が「さすがフランス。一般の日本人には簡単には理解できない高尚なもの(それが理解できる自分の文明度の高さを知れ)」と一定の評価を受けたかもしれないが、今ではこんな演出を喜ぶのはサンデーモーニングに登場する、普通ではない価値観を持った人々ぐらいであろう。
筆者はフランスに出張に出かけることが多く、それなりに現地の人々と接することはあったが、大雑把な印象として、「フランスに来られてよかったね」「君たちに文化というものを教えてあげよう」という姿勢の人々が目についた。少なくともわざわざ訪れてくれた人々に自国を楽しんでもらおう、という「おもてなし」の精神などは感じたことがない。
パリ五輪で選手の移動のバスが窓が開けられずエアコンもないためにサウナ状態になっているというニュースも伝わるが、彼らにとって自らの情報発信こそが重要で、選手の扱いなど二の次三の次、文句が出ればSDGsを持ち出してエアコン不要は当然などと言い出しかねない。
パリ五輪の開会式から見えてきたのはフランスの文化的堕落と暴走するポリコレの危うさである。
長野が地元なので、長野オリンピックの開会式を思い出しました。
長野オリンピックでも宗教的なモチーフが取り入れられ、開幕ベルは善光寺の鐘、そして諏訪大社の氏子による御柱とありましたが、それらはすべて地元の住人による本物の儀式でした。宗教的であることを理由に非難はされていません。
まわし姿の力士たちによる土俵入りもあり、フランスの裸の男の演出と、露出度的にはあまり変わらないけれど、こちらも全く非難されていません。
フランスの今回の炎上騒動との大きな違いは、地元の信者による本物の儀式であったかどうかが大きかったのではないかと思っています。
普段から宗教儀式に参加している地元の信者が関わっていれば、このような冒涜的な内容の儀式まがいをやろうなどとは考えなかったはず。
そのあたりをおろそかにし、自分たちに都合の良い思想だけをパフォーマンスした結果の炎上であったとすれば、ポリコレの危うさここに極まれり、ですね。