「靖国」賛美への違和感-失敗を肯定するのか

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石井 孝明🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

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経済・環境ジャーナリスト。慶應義塾大学経済学部卒、時事通信社記者、経済誌フィナンシャルジャパン副編集長、アゴラ研究所の運営するエネルギー問題のサイトGEPRの編集担当を経て、ジャーナリストとエネルギー・経済問題を中心に執筆活動を行う。著書に「京都議定書は実現できるのかーC O2規制社会のゆくえ」(平凡社)、「気分のエコでは救えない」(日刊工業新聞社)など。
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◆ほとんど配慮されなかった非戦闘員の生命

鳥居の先に本殿が見える(撮影・松田隆)

 第三の問題として、自国民、他国民の非戦闘員の生命の安全について配慮がほとんどなかった点がある。アジア諸国、南方、中国、満洲、朝鮮で軍人以外の約310万人の在留邦人が敗戦で取り残され、戦闘に多くの人が巻き込まれた。また約30万人の沖縄県民が戦争に巻き込まれた。こうした人々を守る戦い方はあったのに、旧軍はそれをしなかった。

 第二次世界大戦のドイツ軍指導部の回顧録を読むと、残虐行為を繰り返すソ連軍から住民を守った行為を強調している。ドイツ海軍司令官で、ヒトラー後継の大統領職にあったデーニッツは、回想録『10年と10日』で、東方領土からの海軍による約300万人の住民避難作戦を誇らしげに語っている。旧独軍はナチス政権の犯罪行為に加担した。その事実を覆い隠すために、それを強調している面がある。しかし残念ながら大日本帝国陸海軍には作戦行動の目的を「住民保護」に置いていない例が多く、誇るべき例は少ない。もし陸海軍が民間人保護を主目的にして戦い玉砕したら、敗戦後今に至るまで続く、軍への不信は、少しは和らいだかもしれない。

 そして人命軽視は、他のアジア諸国民の巻き添いによる殺害、生活の破壊に繋がった。アジア諸国への占領政策も、貧乏国日本に余裕がなかったとはいえ、収奪を伴う非人道的なものだった。「白人支配からのアジアの解放」という日本が唱えた大東亜戦争の目的は、正しい面があったにしても、中身が伴わなかった。

 これらの3つの問題と背景にある旧軍の人命軽視の思想は、「戦死者は神として鎮座する」「天皇、つまり神の軍隊」「神になる崇高な軍人」という異様な自己規定と、靖国神社の世界観と密接に関わっていたと思う。そうした背景から、合理的思考は生まれにくい。

◆合理性欠如の風潮への懸念

 こうした日本帝国とその陸海軍の負の側面と密接に絡み付いた靖国神社に肩入れすることを、私は賛成できない。そして、その賛美は慰霊ではないだろう。「慰霊」と言うなら、静かに祈るべきである。靖国神社には政治的意味が、まとわりつきすぎている。8月15日にこの神社を訪問すると、政治団体の主張ばかりが目立つ。安倍首相をはじめとして政治家が訪問する、そしてそれに喝采を叫ぶことによって、政治的な問題となり騒擾が起こっているのだ。もし特定の場でしたいなら、靖国神社からわずか500メートル離れたところに、無宗教の追悼施設の千鳥ヶ淵戦没者墓苑がある。

 昭和20年代から同30年代にかけて、8月15日の終戦記念日になっても、靖国神社の境内は今とちがってがらがらだったという。私が指摘したような靖国神社の虚構を、戦争を体験した人が知っていたためであろう。一方、ここ数年、靖国神社は私が見学したところ混雑していた。虚構の構造が見えなくなっている人が多いのだろうか。

 私個人は靖国神社に否定的な見方をしているが、それを信じる人、またここを慰霊施設と見る人の意見は尊重する。また旧軍の軍人が、靖国神社に思い入れをもち、一部の人がそれを心の拠り所にしたことも尊重する。そして靖国神社を感情的に罵倒する人も不快だ。また中国、韓国、北朝鮮、米国など他国が干渉するのも、反感を抱く。

 しかし靖国神社を過剰に賛美すること、特に公的な立場の人が賛美をしながら訪問することは、日本の国家意思の表明となる。これは対外的なメッセージになるだけではない。それよりも、日本帝国とその軍が、自国民と兵士に行った恥ずべき歴史を、日本人自らが肯定するという意味を持ってしまうのだ。

 「戦没者を慰霊しよう」という、誰もが異論のない叫びが社会にあふれはじめた。これは歴史の繰り返しを懸念させる。戦前の日本には「英霊賛美」「亜細亜の解放」「自存自衛」「八紘一宇」(日本中心の共同体という意味)という、誰もが肯定する、しかし抽象的すぎて、中身のない言葉がスローガンとして広がった。こうした異論のない大きな問題設定をすることで、必要な問いを忘れ、思考が停止することがよくある。今回もそのような危うさがあるようだ。国や組織による空疎なスローガンが、私たちの生活の現場では混乱の種になることを、昭和の戦争の歴史を見て考えた方がいい。その種のおかしな叫びに、かつても今も、靖国神社という装置がかかわっているのだ。

 私が、太平洋戦争中に兵役の適齢期となり、徴兵「させられ」、家族と引き裂かれ、自殺攻撃や餓死を「させられ」、靖国で英霊に「させられた」としよう。多分私は神になっても靖国神社で、高級軍人、また後から祭られた東条英機元首相などの戦争指導者に対して、その無能に怒って、殴って歩くだろう。

 靖国神社の過剰な賛美は、日本の政治と社会が、いつまで経っても問題のある思考から抜け出せず、合理性から遊離している証(あかし)に見えてしまう。

石井孝明 ジャーナリスト

ツイッター:@ishiitakaaki

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One thought on “「靖国」賛美への違和感-失敗を肯定するのか

  1. アバター 野崎「 より:

    歌謡曲、東京だよおっかさん、と映画、硫黄島からの手紙

    すでに超越している。
    その主語は現在に在る者達は皆、いや圧倒的多数は、である。中に誤認している者はいる。
    超越しているとは、先の大戦は不条理極まりない歴史、地獄であったと明確に認識しているという事である。

    よって賛美などはない。当然肯定も無い。

    超越している、その主語には、おのず靖国神社も含まれる、靖国神社の持つ意味は現在においてまったく異なっている。

    それが理解されているからこそ、外国の要人達、武官達も参拝するのだ。彼らは明確に理解している。
    彼らの参拝は、ある価値観からの敬意の現れだ。
    又偽クリスチャンではない真のクリスチャン達も多く参拝している。

    参拝の意味は不条理の中を生き、そして死んだ者達への敬意、そして愛情だ、それは日本人のみならず戦いの相手であった者達、すなわち敵へも敷衍される、おのずその次元へ昇華される、されているのだ。
    であるから他国も何ら靖国参拝を問題にしなかった、慰安問題と同じように、ある事が発生するまでは。

    比較文化論において日本人は宗教及び規範を有しないという評価がある、どこにあるかは割愛する。
    日本人の宗教的意識とは、
    何かは解らぬが人を超えた存在がある、ということだとする宗教学における見解がある、その証左としてよく使われる。

    なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる
                                西行

    そして死後の世界は存在し、人は死後、その世界、彼岸へ行くと、、

    靖国参拝は、今彼岸にある愛する者へ会いに行くのだ、ただそれだけのことだ。
    宗教的概念など関係の無い単純な思いだ、宗教学において神道は宗教ではない、という評価もあり符合する。

    故島倉千代子氏の、東京だよおっかさん、という歌

    まだ日本が貧しい時代、地方、おそらくは東北から上京し懸命に働きその蓄えをもち年老いた母親を招き、東京見物を共にする歌だ。

    ●久しぶりに手をつなぎ親子で歩ける嬉しさに小さい頃が浮かんで来ますよ、おっかさん、、

    で始まるこの歌、、小さい頃は母に手をつながれた、、それが今は歳老い背中の曲がった母の手を引く、、

    靖国神社へのくだりは、ただ単に彼岸にいる、不条理のうちに死んだ優しかった兄に、母親と一緒に会いに行く、ただそれだけだ、心ある日本人の心は皆そうだ、歌はそれを表している。

    歌詞引用
    >やさしかった兄さんが
    田舎の話を聞きたいと
    桜の下でさぞかし待つだろ
    おっかさん
    あれがあれが九段坂
    逢ったら泣くでしょ兄さんも

    何故、靖国神社ではなく代替施設では駄目なのか、神道的宗教意識を有する日本人にとり、現実に存在し今に在る、その歴史的経緯を踏まえ、さらにそれを超えたからこそ靖国である必然性があるのだ、昇華された日本人の集合意識として靖国神社でなくば駄目なのだ。  抽象的~~!

    映画硫黄島からの手紙 監督 クリント イーストウッド氏は言う。

    絶対悪も絶対善も無い、不条理の中で他者の為に死んだ者は崇高なる存在であると、。
    そして先の大戦を善悪の次元で見るのではなく、そこから新たなものが生まれるように望むと、

    靖国に参拝する日本人の想い、心は正にそうであり、それは相まみえ戦った相手をも包み込む、
    その証左は硫黄島での日米合同慰霊祭にて現出した、相手も同じ思の次元に在ったのだ。

    ●クリント イーストウッド氏のメッセージ

    私が観て育った戦争映画の多くは、どちらかが正義で、どちらかが悪だと描いていました。しかし、人生も戦争も、そういうものではないのです。私の2本の映画も勝ち負けを描いたものではありません。

    戦争が人間に与える影響、ほんとうならもっと生きられたであろう人々に与えた影響を描いています。どちらの側であっても、戦争で命を落とした人々は敬意を受けるに余りある存在です。

    だから、この2本の映画は彼らに対する私のトリビュートなのです。日米双方の側の物語を伝えるこれらの映画を通して、両国が共有する、あの深く心に刻まれた時代を新たな視点で見ることができれば幸いです。
    ここまで引用。

    先の大戦は、そして靖国神社はすでに新たな視点で見られている。見ている、まっとうなる日本人は、他国の心ある人達も。

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