「靖国」賛美への違和感-失敗を肯定するのか

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石井 孝明🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

石井 孝明🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

経済・環境ジャーナリスト。慶應義塾大学経済学部卒、時事通信社記者、経済誌フィナンシャルジャパン副編集長、アゴラ研究所の運営するエネルギー問題のサイトGEPRの編集担当を経て、ジャーナリストとエネルギー・経済問題を中心に執筆活動を行う。著書に「京都議定書は実現できるのかーC O2規制社会のゆくえ」(平凡社)、「気分のエコでは救えない」(日刊工業新聞社)など。

◆宗教施設ではなく近代日本の「聖化」の装置

靖国神社(撮影・松田隆)

 8月15日の終戦記念日が、2020年もやってくる。戦没者の哀悼と、敗戦の苦しみを乗り越えた75年前の日本の先人たちに心から感謝を示したい。これは日本人に共通の認識だろう。

 しかし、ここで私は個人的な意見がある。そうした慰霊と感謝の形が、最近目立つ意見の「靖国神社を参拝・顕彰すること」であるとは思えないのだ。靖国神社は、合理性、人間性を欠いた組織である帝国陸海軍が祭事を統括していた施設であり、その過剰な評価は失敗した日本の歴史を肯定することになってしまう。

 もちろん、この神社にどのように向き合おうと個人の自由だし、私の意見を押し付ける意図はない。しかし、問題を考える場合に立ち止まって、その行為の意味と影響を考えるべきであると思う。

 そもそも靖国神社はどのような存在か。日本の近代史を学べば、次のことがわかる。

(1)近代国家では、どの軍隊でも、異常な行為である戦争を遂行するための精神的支柱を必要とする。日本帝国の場合は、天皇を神とし、それが軍を統率するという虚構を作った。国家神道というイデオロギーを作り、天皇を祭祀長とする国家神道を作った。

(2)国家神道は、日本の土俗宗教である神道を変容させた人工的なものだ。そして内容は漠然とした面があり、理を突き詰めない日本の精神的風土と合っていた。評論家の福田恒存によれば、西欧の近代は、神の否定と個人の自立を特徴とするが、それを体験しないで近代化を進めた日本はもたらされる精神の「空虚」に困惑した。そのために「神聖化された天皇」を「空虚を埋めるために持ち出された偶像」にしたと、印象的な言葉で分析している。(『保守とは何か』)その軍事面で形にしたものが靖国神社だった。

(3)靖国神社、また全国に置かれた護国神社は、戦争による不条理の死を、生きる軍人、また周囲の遺族に納得させるための存在だった。死者が尊い神になるという虚構をつくり、その死を意味のあるものした。

(4)つまり、靖国神社は死を「聖化」するための国家神道内の「装置」であり、「人工物」である。純粋な宗教施設ではない。もちろん、どの宗教施設も人により作られるが、ここで言う「人工物」とは、宗教的な感情よりも、別の目的が強く込められて人為的に作られたという意味だ。

 ちなみに、高橋哲哉東大教授の著書『靖国問題』(ちくま書房)、池田信夫アゴラ研究所所長のコラム「靖国参拝という非合理性」でも、同趣旨の認識を示していた。左右に言論界を分けるのはばかばかしいことだが、左(?)の高橋氏も、右(?、というより合理主義者だが)の池田氏にも共通したということは、これらはどの立場の人も受け止めるべき事実であろう。

 靖国神社によって戦前の人々の戦死の恐怖を完全に乗り越えられたとは思わない。しかし重要な役割を果たした。「靖国で会おう」「靖国で会える」と言うイメージが、当時の軍人の間で定着していた。

◆英霊は「餓死」「自殺攻撃」の被害者

神社内の大村益次郎像(撮影・松田隆)

 大日本帝国陸海軍、そして大日本帝国の戦争観は、醜悪な面がある。人の命を粗末に扱い、死を賛美するのだ。旧軍は明治の建軍以来、戦勝を重ね、日本の国際的地位を高めた栄光の歴史がある。一方で、その醜悪な面、そして太平洋戦争で大敗した負の歴史がある。両方を共に記憶をしなければならない。その負の側面に、靖国神社は密接に結びついていた。

 太平洋戦争は軍人・軍属230万人、民間人80万人の死者を出した。そして国土は破壊され、海外植民地をなくし、国富の3割をなくした。しかも、その敗北は歴史上のあらゆる敗者と同じように、自国の失敗が大きく影響している。

 私が腹を立てるのは、この戦争で頻発する非合理性である。戦争の勝利という軍の追求すべき目的を達成するための合理的行動が行われず、軍官僚の保身、人命の軽視、プロにあるまじき錯誤が目立つのだ。「戦没者に感謝」などの、きれいごとでは決してすまされない。普通の感覚なら「責任者でてこい」と、糺弾すべき話が多い。特にひどい3つの問題がある。

 第一の問題は、大量の餓死者を出したことだ。終戦時に多くの部隊が全滅、また資料が破棄されたため正確な事実は分からない。しかし数十万人単位で、餓死が出たと推定される。歴史学者の藤原彰氏は、太平洋戦争の軍人の戦没者の212万人のうち、約6割の127万人が餓死、病死、戦地の栄養不足で死亡したと推計している(『餓死した英霊たち』(青木書房))。この人は、日本軍を批判する情報に片寄りがちの歴史家で、同書も精緻な分析とはいえない。しかし大量であったことは疑いない。これほどの餓死者を出した軍隊は、近代以降の世界の戦史で類例がない。

 普通の軍事常識なら、補給に基づいて軍を展開する。ところが、日本の陸海軍は調子のいいときに戦線を拡大。その後に制海権、制空権を奪われ、部隊を孤立させてしまう。米軍の有能さだけではなく、自らの過ちによって日本軍は自壊した面がある。歴史家の保坂正康氏の『昭和陸軍の研究』(朝日新聞社)によると、戦後、大本営陸軍部(参謀本部)作戦課の課員のエリート将校が、「あんなに餓死がいると、戦後初めて知った」と振り返ったという。彼らには、兵士は「駒」だったのだ。

 第二の問題は、兵士に自殺攻撃を、部隊に全滅をうながす、人名軽視の命令が大量に出されたことだ。敗北が確定的になったときに、米軍が言うところの「バンザイアタック」という白兵突撃が、各地の陸戦で繰り返された。そして全滅を「玉砕」(玉とくだける)という美しい言葉で隠した。また「特別攻撃」(特攻)という名目で爆弾を持ち、航空機、潜水艦で突入させる戦法もあった。その要員となった若者の精神的な苦痛を想像すると、言葉を失う。戦後、「特攻は志願だった」という虚構が軍の立案者によって振りまかれたが、事実上の強制だった。

 これらの事実について、私は作戦・戦備立案者、それを認めた陸海軍という組織に怒りを覚える。戦争は人間の社会で避けられない以上、軍の存在は必要だろう。しかし、国家も軍も、飢餓という地獄に直面させる、爆弾を持って突っ込ませるなどの非人道的行為を、国民に強制させる権限は絶対にない。

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One thought on “「靖国」賛美への違和感-失敗を肯定するのか

  1. アバター 野崎「 より:

    歌謡曲、東京だよおっかさん、と映画、硫黄島からの手紙

    すでに超越している。
    その主語は現在に在る者達は皆、いや圧倒的多数は、である。中に誤認している者はいる。
    超越しているとは、先の大戦は不条理極まりない歴史、地獄であったと明確に認識しているという事である。

    よって賛美などはない。当然肯定も無い。

    超越している、その主語には、おのず靖国神社も含まれる、靖国神社の持つ意味は現在においてまったく異なっている。

    それが理解されているからこそ、外国の要人達、武官達も参拝するのだ。彼らは明確に理解している。
    彼らの参拝は、ある価値観からの敬意の現れだ。
    又偽クリスチャンではない真のクリスチャン達も多く参拝している。

    参拝の意味は不条理の中を生き、そして死んだ者達への敬意、そして愛情だ、それは日本人のみならず戦いの相手であった者達、すなわち敵へも敷衍される、おのずその次元へ昇華される、されているのだ。
    であるから他国も何ら靖国参拝を問題にしなかった、慰安問題と同じように、ある事が発生するまでは。

    比較文化論において日本人は宗教及び規範を有しないという評価がある、どこにあるかは割愛する。
    日本人の宗教的意識とは、
    何かは解らぬが人を超えた存在がある、ということだとする宗教学における見解がある、その証左としてよく使われる。

    なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる
                                西行

    そして死後の世界は存在し、人は死後、その世界、彼岸へ行くと、、

    靖国参拝は、今彼岸にある愛する者へ会いに行くのだ、ただそれだけのことだ。
    宗教的概念など関係の無い単純な思いだ、宗教学において神道は宗教ではない、という評価もあり符合する。

    故島倉千代子氏の、東京だよおっかさん、という歌

    まだ日本が貧しい時代、地方、おそらくは東北から上京し懸命に働きその蓄えをもち年老いた母親を招き、東京見物を共にする歌だ。

    ●久しぶりに手をつなぎ親子で歩ける嬉しさに小さい頃が浮かんで来ますよ、おっかさん、、

    で始まるこの歌、、小さい頃は母に手をつながれた、、それが今は歳老い背中の曲がった母の手を引く、、

    靖国神社へのくだりは、ただ単に彼岸にいる、不条理のうちに死んだ優しかった兄に、母親と一緒に会いに行く、ただそれだけだ、心ある日本人の心は皆そうだ、歌はそれを表している。

    歌詞引用
    >やさしかった兄さんが
    田舎の話を聞きたいと
    桜の下でさぞかし待つだろ
    おっかさん
    あれがあれが九段坂
    逢ったら泣くでしょ兄さんも

    何故、靖国神社ではなく代替施設では駄目なのか、神道的宗教意識を有する日本人にとり、現実に存在し今に在る、その歴史的経緯を踏まえ、さらにそれを超えたからこそ靖国である必然性があるのだ、昇華された日本人の集合意識として靖国神社でなくば駄目なのだ。  抽象的~~!

    映画硫黄島からの手紙 監督 クリント イーストウッド氏は言う。

    絶対悪も絶対善も無い、不条理の中で他者の為に死んだ者は崇高なる存在であると、。
    そして先の大戦を善悪の次元で見るのではなく、そこから新たなものが生まれるように望むと、

    靖国に参拝する日本人の想い、心は正にそうであり、それは相まみえ戦った相手をも包み込む、
    その証左は硫黄島での日米合同慰霊祭にて現出した、相手も同じ思の次元に在ったのだ。

    ●クリント イーストウッド氏のメッセージ

    私が観て育った戦争映画の多くは、どちらかが正義で、どちらかが悪だと描いていました。しかし、人生も戦争も、そういうものではないのです。私の2本の映画も勝ち負けを描いたものではありません。

    戦争が人間に与える影響、ほんとうならもっと生きられたであろう人々に与えた影響を描いています。どちらの側であっても、戦争で命を落とした人々は敬意を受けるに余りある存在です。

    だから、この2本の映画は彼らに対する私のトリビュートなのです。日米双方の側の物語を伝えるこれらの映画を通して、両国が共有する、あの深く心に刻まれた時代を新たな視点で見ることができれば幸いです。
    ここまで引用。

    先の大戦は、そして靖国神社はすでに新たな視点で見られている。見ている、まっとうなる日本人は、他国の心ある人達も。

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