ドバイ4鞍全敗 96年日本馬の初参戦秘話
松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵
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ドバイWCデーが30日、UAEドバイのメイダン競馬場で開催され、日本で馬券発売された4鞍での日本調教馬の勝利はなかった。日本の競馬ファンにとっては消化不良とも思える結果。実は筆者は1996年の第1回のドバイワールドカップにライブリマウントが参戦したきっかけを作っている。ドバイミーティングにはそれなりに思い入れがあり、来年以降の日本調教馬の奮起に期待をし、第1回当時の秘話を紹介する。
◾️惜しまれるドウデュース
今年のドバイミーティングは、G2UAEダービーをフォーエバーヤングが制したものの、勝ち星はこの1鞍のみに終わった。G1ドバイワールドカップ連覇を狙ったウシュバテソーロは8馬身差、G1ドバイシーマクラシックは2年ぶり2度目の優勝を狙ったシャフリヤールが2馬身差、G1ドバイターフはナミュールが短頭差、G1ドバイゴールデンシャヒーンはドンフランキーが6馬身半差と、馬券発売された4鞍全てで2着。
日本調教馬のレベルの高さは示したものの、海外G1で特にファンから強く求められる勝利がなく、全体的にフラストレーションが溜まる結果となった。2023年はウシュバテソーロ、イクイノックス、2022年はパンサラッサ(同着)、シャフリヤールでそれぞれ2勝したことに比べるとどうしても物足りなさは感じるのは仕方がないのかもしれない。ちなみに2021年も同じ4鞍で全て2着となっている。
今年の4鞍では、ドウデュースが出遅れて馬群に包まれて後方から動くに動けず5着が惜しまれる。武豊騎手もレース後に「残念ですね。不完全燃焼です。…どこかで外に出したかったけど、そのタイミングがなかった。今日は力を出し切れなかったので…本来のパフォーマンスができなかった。」(日刊スポーツ電子版・【ドバイターフ】武豊「不完全燃焼。悔しい」ドウデュース進路開かず5着、昨年の無念晴らせず)と語っていた。
連覇がかかっていたウシュバテソーロの川田騎手は「はるか先に勝ち馬がいました。…2000メートルでもあれだけしっかり走られてしまっては、どの馬にもノーチャンスだったと思います。」(スポーツ報知電子版・【ドバイ・ワールドC】無念2着のウシュバテソーロに川田将雅騎手「どの馬にもノーチャンスだったと思います」と勝ち馬に脱帽)と話しており、G1サウジカップに続く連続2着で世界でトップクラスの実力を示せたことでよしとすべきかもしれない。
◾️伏線となったダンスパートナーの遠征
個人的にはメーンのドバイワールドカップには特別な思いがある。1996年に第1回が開催され、日本からはライブリマウント(石橋守騎手、現調教師)が参戦し、11頭立ての6着と健闘した。ライブリマウントが参戦するきっかけとなったのは、当時、筆者が勤務していた日刊スポーツの「ライブリマウントがドバイ参戦へ」という記事(1995年末から1996年初頭にかけての掲載と記憶している)であるのは間違いない。この記事は筆者が取材、出稿したものである。
当該記事の伏線は1995年夏から秋にかけて行われた武豊騎手とダンスパートナー(優駿牝馬などG1を2勝)のフランス遠征にある。同馬はG3ノネット賞(芝1600m、現G2)2着、G1ヴェルメイユ賞(芝2400m)6着と好走した。特にノネット賞では勝ったマティアラというG1プールデッセデプーリッシュ(仏1000ギニー)優勝馬の鼻差2着と、クラシックホースの牙城をあと一歩で崩すところまで迫った。
筆者はこの遠征のため40日以上、フランスに滞在して取材を続けた。ノネット賞から数日後、マティアラに騎乗していたF・ヘッド騎手に下手くそな英語で取材した。フランス人騎手も英語で応じてくれ、「この前は何とか勝ったが、次(ヴェルメイユ賞)は2400m。ダンスパートナーはオークスを勝っているし、マティアラはマイルが得意なのでマズいな」と口にしていた。結果的にヴェルメイユ賞ではマティアラが4着とダンスパートナー6着には先着したが、日本調教馬が現地の騎手にとって脅威を与える存在となっていたのは事実である。
この取材を通じて(日本調教馬でも海外で勝負になる)と感じ、以後、日本ではその点を意識して取材をするようになった。それがライブリマウントの記事へと繋がるのである。
この項の最後にダンスパートナー関連の情報を付け加えておこう。ヴェルメイユ賞を勝ったカーリング(他にG1ディアヌ賞=仏オークス優勝)は後に社台ファームに購入され、その産駒のローエングリン(父シングスピール)はマイラーズカップなど重賞を4勝、母の母国であるフランスにも遠征しG1ムーランドロンシャン賞で2着になっている。種牡馬となってからはロゴタイプ(皐月賞などG1・3勝)を輩出するなど、確実に日本にその血を残している。
また、マティアラはヴェルメイユ賞後に米国に移籍し、G1ラモナH(現G2ジョン・C・マビーH)を制したが、続くG1ビヴァリーDSで競走を中止、予後不良となった。
◾️ライブリマウントの調教師を直撃
こうして筆者が海外の大レースに気持ちを向けるようになった1995年に、ドバイワールドカップが創設されることとなった。総賞金400万ドル(約6億円)、1着賞金240万ドル(約3億6000万円)という産油国ならではの高額賞金レース(為替レートは2024年3月末現在、1996年3月は概ね4億3000万円と2億6000万円)。
ドバイのシェイク・モハメド殿下がドバイを世界の競馬の中心地の1つにしようという理想を現実化するもので、ワールドカップという名称から大規模な国際レースとしたい思いが伝わってくる。
とはいえ、賞金は高いが海のものとも山のものとも分からないレースに日本から出走馬が出るとも思えなかった。遠征するとしたら、1995年にG2フェブラリーS、帝王賞を制し、同年の南部杯(盛岡)で地方のトウケイニセイを破ってダートでは日本最強の位置付けであったライブリマウントではないか、と筆者は思っていた。
そこで1996年の年明けだったと思うが、栗東トレセンに取材に行った際に、同馬を管理する柴田不二男調教師に話を聞いた。午後、厩舎を訪れると、当時74歳だった柴田調教師は初めて見る関東からの記者にも優しく取材に応じてくれた。その時のやり取りは概ね以下のような感じだった。
松田:ライブリマウントですが、ドバイワールドカップに遠征する可能性はありますか?
柴田:何?
松田:ドバイワールドカップです。
柴田:何だそれ?
松田:今回、創設されたアラブ首長国連邦ドバイで行われる高額賞金の国際レースです。
柴田:ふーん
松田:招待レースで、1着賞金が日本円で2億円以上あるので世界のダートの強豪が集まると言われています。
柴田:距離は?
松田:2000mです。
柴田:いつだ?
松田:3月27日(1996年)です。
柴田:そういうレースがあるんだ。
松田:とりあえず登録されますか?
柴田:おお、行こうか。
松田:本当ですか?
柴田:ああ、行くよ。
取材をしているこちらがびっくりするほど簡単に遠征を決める、何とも豪胆な調教師である。早速、翌日の紙面に「ライブリマウントがドバイ遠征へ」の見出しが踊った。当時はJRAにダートのG1がなく(フェブラリーSのG1昇格は翌1997年)、地方のビッグレースを狙うにも4月の帝王賞まで待たなくてはならず、既に両レースを勝っていた同馬には3月末は海外遠征するのにいいタイミングではあった。また、柴田調教師は翌1997年に勇退が迫っており、最後に海外のビッグレースを使おうという気持ちもあったのかもしれない。柴田調教師が即決したのは、そうした事情があったように思う。
この記事は日刊スポーツのスクープとなったが、他紙の記者の反応は「また、松田が飛ばし記事書きやがって」みたいなものであったように感じられた。当時はダートホースは「芝が苦手な馬」というグラスホースの二軍的扱いだったこともあり、他紙は全てスルーしたように記憶している。
◾️豪華な第1回ドバイワールドカップ
1996年3月27日、記念すべき第1回ドバイワールドカップがナドアルシバ競馬場で開催された。出走馬は米シガー(1995年米年度代表馬)、英ペンタイア(G1愛チャンピオンS優勝)、英ホーリング(G1エクリプスS、G1国際S優勝)、UAEトーレンシャル(G1ジャンプラ賞優勝)、豪デーンウィン(コーフィールドSなど豪G1を5勝)など、各大陸のトップ級が顔を揃えた。その中に極東の競馬弱小国と思われていた日本のライブリマウントの姿があった。日本産馬で鞍上は石橋守騎手(現調教師)と、様々な面で日本を代表する存在であった。
結果は勝ったシガーから20馬身近く離されての6着ではあったが、今では世界のビッグレースとして知られるレースの第1回開催に日本調教馬が日本人騎手で挑んだことは後世に伝えられるべき、誇れる日本の競馬史の1ページである。
21世紀の今、海外遠征が盛んになるあまり、日本の競馬が空洞化するのではないかという不安も出るほどではあるが、1990年代半ばまでは海外遠征はリスクが大きすぎると二の足を踏む関係者は少なくなかった。その時代に世界の強豪を相手に果敢に挑んだ柴田不二男調教師、石橋守騎手の勇気があったからこそ、今の日本調教馬の活躍があると言っていいと思う。
筆者はライブリマウントの遠征のきっかけを作ったと自負しており、ほんの少しであるが、競馬サークルに貢献できたと感じている。同時に見も知らぬ記者(筆者)に「ドバイに行く」と言って、本当に管理馬を参戦させた柴田調教師の有言実行に深く感謝している。
できれば石橋守調教師には管理馬でドバイワールドカップに挑んでほしい。第1回の出場騎手が調教師として挑んで優勝したら、これ以上ないドラマである。
今回のドバイミーティングは残念な結果に終わったが、失敗は成功の糧としなければならない。2024年のドバイでは続々と日本調教馬が勝ち星を挙げることを期待しようではないか。
ドバイワールドカップミーティングですが、UAEダービーのフォーエバーヤングの1勝だけだったのはちょっと残念でしたが、日本馬が出走した7レースのうち5レースで連対(うち1レースが上記の1勝)でしたから、大健闘とも言えます。
日本競馬のレベルが28年前と比較して、かなり向上しているとも言えます。
外国馬の勝馬の中には、日本と馴染みのある血統もいるみたいです。
ドバイゴールドカップ:Tower Of London
愛ダービー、英セントレジャーを優勝したCapriの全弟ですが、全姉のエンタイスドが三嶋牧場によって日本に繁殖牝馬として導入されています。
アルクォズスプリント:California Spangle
3代母のBasileaの半妹にゲートドクールがおり、子孫にココパシオン、リトルオードリー姉妹、大阪杯では6着と敗れましたが、GⅡ3勝の実力馬であるプラダリアがいます。
また、Basileaの従弟に重賞4勝のスギノハヤカゼがいます。
ドバイシーマクラシック:Rebel’s Romance
2代母Short Skirtの半妹にホワイトウォーターアフェアとリッチアフェアーがおり、ホワイトウォーターアフェアからは、安田記念を勝ったアサクサデンエン、小倉記念を優勝し、天皇賞・秋で2着入線をしたスイフトカレント、オールウェザー時代のドバイワールドカップを優勝し、有馬記念、皐月賞を優勝したヴィクトワールピサが輩出されています。
リッチアフェアーからは孫にあたるローブティサージュが阪神JFを優勝しています。
ドバイワールドカップ:Laurel River
Almahmoud牝系のうち、大種牡馬Northern Dancerを輩出したNatalmaの子孫であり、国内外でも数多くの活躍馬を輩出している名牝系ですが、日本では、フラワーCを優勝し、皐月賞にも出走したファンディーナ、GⅢを4勝し、高松宮記念で2年連続2着のナムラクレア、セントライト記念を優勝したシンコウカリド、アンタレスSを優勝したフィフティーワナーが一族になります。
因みにLaurel Riverの従姉にあたるカーミングエフェクトはノーザンファームによって日本に繁殖牝馬として導入されています。
確かに5/7連対は相当なものですね。当然のことながら総じて欧州勢はダートの層が薄いですから、今後は中東・北米に日本を加えた3つのエリアが中東シリーズでの存在感を増していくのだろうと思います。
フォーエバーヤングのオーナー・厩舎事情は知りませんが、日本のクラシックには見向きもせず最初からケンタッキーダービー狙いのように見えて、時代が変わったなと感じます。
それからご指摘いただいた多くの優勝馬の近親が日本で活躍している事実、これも日本の血統改良に大きく貢献していることを思います。
産地のプロの方なのでしょうか、豊富な知識に頭が下がります。貴重なご指摘をありがとうございました。
ご返答有り難う御座います。
残ながら私は産地のプロではなく、普通のサラリーマンです。
サラブレッドの血統表を見るのが好きで、最近は競馬サイトの血統表から色々と調べたりします。
フォーエバーヤングですが、厩舎が海外でも結果を残している矢作芳人調教師ですし、オーナーはサイバーエージェントの藤田晋社長ですから、海外のビッグレースをターゲットにしているのも頷けると思います。
秋古馬3冠のゼンノロブロイの近親ですが、全体的にアメリカン血統ですし、アメリカ特有のダートも難なくこなせるのではないかと思います。
欲を言えば、プリークネスステークス、ベルモントステークスにも参戦して欲しいですね。
僕はてっきりプロだと思っていました。本職でもないのに、その知識量は素晴らしいですね。
僕も血統は少し興味があり、東スポの白井寿昭元調教師の血統の話はたまに読んでいました。ちなみに、日刊スポーツに田端到さんを引っ張ってきたのは僕で、今でも彼は書いているようです。彼が以前「血統はイメージだ」と語っていたのが印象に残り、僕も血統の構成を見て全体のイメージを把握するようにしています。
キタサンブラックの母の父がサクラバクシンオーなので菊花賞では半信半疑だったのですが、結果を見て「バクシンオーは短距離も強いスタミナのある馬」のイメージでとらえるのがいいのかなと思うようになりました。
競馬の話はあまり書くことはないと思いますが、たまに公開いたしますので、また、いらしてください。
ありがとうございました。