チェルノブイリの虚像と実像 繰り返された過ち

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石井 孝明🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

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経済・環境ジャーナリスト。慶應義塾大学経済学部卒、時事通信社記者、経済誌フィナンシャルジャパン副編集長、アゴラ研究所の運営するエネルギー問題のサイトGEPRの編集担当を経て、ジャーナリストとエネルギー・経済問題を中心に執筆活動を行う。著書に「京都議定書は実現できるのかーC O2規制社会のゆくえ」(平凡社)、「気分のエコでは救えない」(日刊工業新聞社)など。
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 印象と実像は異なる。こんな経験をしたことはないだろうか。原子力やエネルギー産業について私は報道してきたが、それらについて社会の多くの人の抱く印象と実際の状況が違う例を何度も見た。その例の一つを紹介したい。(元記事はwith ENERGY安全だった? チェルノブイリ、印象と実像

◆事故原子炉に接近できた

事故を起こしたチェルノブイリ4号機(2014年11月撮影・石井孝明)

 私は、大事故が発生したウクライナにあるチェルノブイリ(チョルノビリ)原子力発電所を2014年11月に訪問取材した。現地の事情をみて、世界に広がった原子力への恐怖が、行き過ぎであった印象を受けた。ウクライナ戦争で同所が再び世界で注目されている。私の見聞を紹介し、日本への教訓を考えたい。

 「この壁の向こうが事故炉です」。

 ガイドの説明を聞きながら怖くなった。私はチェルノブイリ原子力発電所で事故を起こした4号機から、約5メートルの壁を隔てただけの3号機に立っていた。線量計は空間線量で毎時30~40マイクロシーベルト。かなり高いが、すぐに健康被害を及ぼすものではない数値だった。大丈夫と理性で分かっても、気味の悪い感情は消せなかった。

 ただし同時に危険と思っていたチェルノブイリが管理され、それほど危険でもないことに驚いた。VVRKと呼ばれるソ連で1970‐80年代に作られた加圧式原子炉は炉心の格納容器がない。頑丈な原子炉建屋が防護していた。私のいた3号機は事故炉と同じ建物だった。ただし、この事故はこの建屋が吹っ飛ぶほどの大事故だった。

 チェルノブイリは「生きた」施設だった。その3号機は事故から1か月ほど経過すると稼働をし、1号機、2号機も含め2000年まで安全対策をした後で発電していた。また同発電所には変電所が併設され現在も運用されている。さらに事故の処理も続いており、事故の建屋を覆う鉄製の巨大なドームが建設されていた。このドームは2022年現在、事故炉を覆っている。今回の戦争で変電施設は止まったもようだ。ここには訪問当時1000人弱の人が働いていた。

 またチェルノブイリ近郊は30キロ圏内が、無人地帯になっていた。そこは人間の手がほとんど入らないために、野生動物の宝庫になっており、近くの森には鹿などが遠望できた。高齢者を中心に立ち退き地域に戻って暮らす人もいた。当時77歳の帰還者の男性と話したが、事故直後にこの人が街に行くと、「チェルノブイリの奴が来た」と人々が逃げ出したという。自給自足の生活をして、定期検診を受けているが、健康に問題はないそうだ。この地域の住民、同原子力発電所の職員は、同地区から40キロほど離れたスラブチッチという新しく建設された街に移住している。この人たちも現地に自生するキノコや木の実を食べなければ、特に健康に問題はないという。

◆想像より少ない事故の人的被害

3号機の巨大な冷却装置(撮影・石井孝明)

 チェルノブイリ原子力発電所は、キエフ(キーウ)北方の130キロにあり、ロシア、ベラルーシ、ウクライナの国境にある。1986年4月26日午前1時20分ごろに、同4号機で事故が発生した。同機の外部電源の喪失時の制御と配電設備のテストを行っていたところ、核反応が制御できなくなり、原子炉が加熱して爆発した。

 この放射線の影響で亡くなったのは、ロシア政府の30年目の公式報告書では50人、IAEAの2008年の報告では33人になる。事故処理にかかわった人で、急性白血病になった人の数だ。また事故後に放射能に汚染された餌を食べた乳牛の作るミルク、乳製品が流通したことによって子どもを中心に4000人が甲状腺被ばくによるがんになり、10人が亡くなったとされる。もちろん大きな被害であるが、事故直後に世界に広がった恐怖に比べて、死者の数は意外に少ない。

 前述のロシア政府とIAEAの報告書ではともに「住民の精神的ストレスが健康に悪影響を及ぼした」「その後の避難者の疾患は旧ソ連の平均を著しく上回っていない」「年100mSv以下の低線量被ばくによって健康被害は観察されていない」との評価が記されていた。ウクライナ現地の関係者もそろって同様のことを話していた。

 それどころかパニックの方が大きかった。正確な数字は見つからないが、ウクライナではこの事故をきっかけに、事故直後に、前年より数千人分の人工中絶が増えたという記述もあった。デマで命が左右されたことは痛ましい。

 チェルノブイリ事故を、たいした事故ではないと、矮小化する意図はない。しかし、事故でつくられた虚像と、実像には大きな乖離がある。原子力事故は恐ろしいものだが、人間の力で、事故を制御できた面もあるのだ。

 チェルノブイリはロシア軍が今年2月からのウクライナ戦争で一時占領した。汚染地域を軍隊が通過しているため、それによる放射性物質の拡散が懸念されるものの、健康被害が広がる可能性は少ないだろう。

◆ウクライナは原子力発電所を使い続けた

事故を起こしたチェルノブイリ4号機の隣にある同型の3号機の制御機器。1980年代のまま(撮影・石井孝明)

 日本人のツアー参加者は「原子力発電に賛成ですか、反対ですか」という質問を、ウクライナの現地の人に繰り返した。どの人も、賛否をめぐる単純な答えを示さなかった。まず自分のチェルノブイリをめぐる経験を語り、その上で賛成、反対の意見を述べた。まず生活という現実があり、それに忙しく、原発の是非を簡単に結論づけられないのだろう。2011年の東京電力の福島原発事故の後で、東京在住の私は20回ほど福島を訪問している。そこで聞いた福島県民の方々の感想とよく似ていた。

 そしてウクライナは原子力発電を使い続けた。1991年のソ連邦解体直後に脱原発を決めたものの、2年ほどで撤回した。同国は石炭以外に自前のエネルギー資源はほぼなく、2014年から内戦が発生して経済的に混乱している。同国の原子力依存度は2020年で6割前後と非常に高い。エネルギーを確保するために、使わざるをえなかったのだ。今回のウクライナ戦争でも、同国の原子力発電所は稼働を続けている。

 東京電力の福島原発事故で、同じようにデマが拡散し、風評被害が発生、社会が混乱した。その結果、風評被害はまだ残ったままだ。日本政府は旧ソ連政府のように積極的な情報の隠蔽はしなかった。しかし正確な情報の発信は不十分だった。また自由な言論が逆に無責任なデマを拡散させ、社会の混乱や復興の遅れをもたらしてしまった。無責任な誤った情報を拡散した人たちは、反省もなく、今も放射能や、別の問題で騒ぎ続けている。

 日本は、チェルノブイリの過ちを繰り返してしまった。とても残念なことだ。

※元記事は石井孝明氏のサイト「with ENERGY」に掲載された・「安全だった? チェルノブイリ、印象と実像」 タイトルをはじめ、一部表現を改めた部分があります。

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