免職教師の叫び(15)劣化した看板が語る真実

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

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青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。
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 中学・高校時代に教師から性的被害を受けたとする石田郁子氏が公開した写真の年代特定に、新たな証拠が出た。1999年10月にオコタンペ湖の展望台を撮影した貴重なショットが見つかり、年代特定がしやすくなるとともに、再検討の必要が生じた。撮影者からの転載許可もいただけたことで、第13回で行った検討をいったん白紙に戻し、新証拠を加えて再度検討する。

■オコタンペ湖展望台1999年夏

フジテレビで紹介された写真①と写真②

  写真家の石田郁子氏(43)は高校3年の頃(1995年)に、元教師の鈴木浩氏(仮名)と撮影したとする写真をフジテレビに提供、それが昨年9月30日に同系列のニュース番組で紹介された(写真①、写真②)。

 上記の写真の撮影場所はオコタンペ湖(千歳市)の展望台であることは分かっており、看板と柵の工事の記録から2000年夏以前に撮影されたものであることは確実である(参照:連載第13回オコタンペ湖の謎)。

写真③(川本一俊氏提供)

 今回、外部から情報提供があり、1999年10月10日に撮影された同所の写真の存在が明らかになった(写真③)。これはある旅行好きの夫婦が「夫婦二人の山歩き」というブログで公開していたものである(写真転載については、ブログ主の川本一俊氏の了解を得ています)。この看板と石田氏の写真の看板を見ると、石田氏の写真の方が先に撮影されていると思われる。

写真②と写真③の比較

 もともと、「オコタンペ湖」の看板は、1984年撮影時の写真(連載第13回写真④)から分かるように、焦茶色であった。それが経年の劣化で脱色していった。写真②と写真③を比較すると、まず、矢印で示した写真②の石田氏の頭上にある黒の楕円形は、写真③では白く変色している。また、赤い丸で囲った苫小牧営林署の「苫」の文字は、写真②の方が見やすい。

 このような変化について北海道で生まれ育った鈴木浩氏は「オコタンペ湖のあたりは雪も深く、あの看板も冬の間はずっと雪に埋もれているはずです。そのため、こうした看板は劣化が激しく、10年も経てば色が落ちてしまいます」と話す。

 劣化の程度を考えると写真②は写真③より前に撮られたのは明らか。また、写真②の季節は夏で、1999年に撮影されたとすると、わずか2~3か月で写真③のレベルで劣化したことになる。雪に埋もれていない2~3か月での劣化の程度としては激しすぎると言え、おそらく1998年以前の撮影と思われる。

■1998年秋に超短髪にした石田氏

 石田氏が主張する1995年から、念の為1999年までの5年間の中で、撮影された可能性が高い年代を探っていく。1999年は、石田氏も鈴木氏も交際期間は終わっているとしているため、2人が同時に写る形での写真は存在する可能性はないが、写真が合成された可能性を考えると、石田氏が1人で撮影した可能性はゼロではない。

 しかし、前述のように看板の劣化具合から1999年撮影と考えることは難しい。さらに石田氏は1998年秋に髪の毛を極端に短くしており、1999年夏に肩まである髪になっている可能性はない。これは、鈴木氏と石田氏の共通の友人である松永なおみ氏(仮名、参照:連載第12回CAN YOU CELEBRATE?)が石田氏がアルバイトとして勤務する焼肉店に行った時に気付いたものである。松永氏から話を聞かされた鈴木氏は言う。

 「石田は●●駅の近くの焼肉屋でアルバイトをしていたようです。交際が終わった1998年秋ぐらいに松永なおみさんが店に行ったら、石田は坊主頭で働いていたそうです。松永さんが驚いて『どうしたの?』と聞くと『お客さんの前に出られないから、裏で食器洗いしてるんだ』と言ったそうです。」

 石田氏の内心は知る由もないが、鈴木氏から交際を打ち切られたことで傷つき、自暴自棄になっていたのかもしれない。1998年秋に”坊主頭”にしたのに、写真①、②では髪は肩まである。ウイッグかもしれないが、ウイッグをするぐらいなら髪は切らないと思われる。実際に、焼肉屋では短髪のままアルバイトをしていた。その意味からも写真①、②が1999年に撮影された可能性はないと言っていい。

■1995年撮影説の苦しさ

写真④(フジテレビ画面に一部加工)

 次に1995年。これについて鈴木氏は「高3の時に(石田氏から)『親のこととか悩んでいるけど、勉強するから先生にも連絡しない』と言われました。半年とか8か月とか長期間、プツッと連絡が途絶えました。次に連絡が来たのは、大学入学後です。入学式が終わって北大が…という話をしていましたから」と話していた。その点から1995年に2人でオコタンペ湖に行く可能性はないと言える。

  この話は現在、閲覧制限がかけられている診療経過記録に石田氏の話として掲載されているという話もあり、鈴木氏はその件についてノーコメントとしている(以上、参照:連載第6回疑惑の交際写真)。

 また、フジテレビの報道の変遷も1995年説を否定する方向へ働く。昨年9月30日、Live News daysでこの問題が報じられ、写真②を紹介した時には「高校3年時」と明記されていた(写真④)。ところが、現在、FNNプライムオンラインに掲載されている写真では、「高校3年生の頃」とされている(写真①)。裁判資料などから高校3年の時と断定できない状況が発生したと考えるのが普通であろう(参照:性暴力を受けた少女は「交際」と信じた 教師のわいせつはなぜ裁かれなかったか)。

 オコタンペ湖の展望台は観光地と呼ぶにはあまりにお寒い場所。土産物屋はもちろん、ベンチもトイレもなく、当然、訪れる人もほとんどいない。電車もバスも通っておらず、千歳駅からバスで1時間かけて支笏湖温泉に行き、そこからタクシーで30分。大学受験前という事情に加え、金銭的な面からも高校3年生の石田氏が一人で行ける場所ではない。写真が鈴木氏の姿をはめ込んだ合成だったとしたら、1人でオコタンペ湖に行ったことになるが、そのようなことは無理であろうし、そもそもオコタンペ湖に行く理由がない。

■1996年オコタンペ湖に行く理由

 次は1996年、石田氏は大学1年になっている。春先に鈴木氏は「北大に合格しました」という電話を受け、再びファミリーレストランなどで相談に乗るようになったが、交際には至っていない。一方、石田氏は性交を行うようになったとする年齢である。

 この点、共通の友人である松永なおみ氏が石田氏を恋人として紹介されたのが1997年夏であり1998年夏頃まで自宅での焼肉会で交際している状況を確認できていたと話しており、1996年は交際していたが1997年7月には別れたという石田氏の主張は疑わしい。

 また、石田氏が1人で、もしくは友人とドライブで行くということも考えにくい。道内に多くの有名観光地がある中、わざわざオコタンペ湖に行く理由がないのは1995年の場合と同様である。鈴木氏によれば、石田氏は北大入学後、美術部黒百合会に入ったという。同部では例年夏に合宿を行っているそうで、その中でオコタンペ湖に行った可能性がありそうだが、念の為、黒百合会のOBOG組織に問い合わせたところ、石田氏について「当会には所属しておりません、過去にも会員になったことはありません。…(夏合宿で)オコタンぺ湖にいく計画をしたことがありませんし…」という回答であった。

 こうして考えていくと、写真①、②の撮影時期は1997年か1998年のいずれかということになる。鈴木氏によれば交際期間であり、鈴木氏の自動車を利用すれば行くこと自体は困難ではない。

 しかし、鈴木氏は「絶対に2人で行っていない」とする。鈴木氏が行ったのに「行ってない」と嘘をつくメリットはないことは既に論じた(参照:連載第13回オコタンペ湖の謎)。もし、行っているなら行ったと言い、写真①、②は「1995年ではなく1997(8)年に行ったもので、石田氏は嘘をついている」と、逆に相手の主張が虚偽であることを主張できる。

 その機会を放棄してまで「行ってない」と言うのであれば、少なくとも鈴木氏は本当に行っておらず、石田氏が1人で行って撮影したのではないかという考えも成立しそうである。

 そうなると引っ掛かるのは1995年、1996年の時に示した「オコタンペ湖に行く理由」が1997年と1998年にはあるのか、という点である。

■オコタンペ湖の存在を意識した時期

塩谷丸山の山頂付近から(1990年頃撮影、提供・鈴木浩氏=仮名、友人と登頂した際に撮影)

 鈴木氏は交際を始めてから、自分が行った場所を自慢げに石田氏に話すことが多かったという。石田氏が「頂上付近でわいせつな行為をさせられた」とする塩谷丸山にも、他の友人と何度か登頂したことがあり、話をしたという。 

 オコタンペ湖の展望台についても同様である。鈴木氏は友人と車で何度か展望台の前を通ったことがあり、その時の話を交際中にすることが多かった。そこで石田氏が同地の存在を認識したのは間違いないと思われる。

 鈴木氏は言う。「そもそも1998年夏に石田が東京に1人で行くと言い出したのも、僕が以前、1人で東京の美術館巡りをして、しきりに『楽しかった』と言ったことが理由でした。当時は交際していたので『一緒に(東京に)行こうよ』と言ったのですが、石田は『あなたが1人で美術館を回って楽しかったと言うから、私も1人で行って楽しみたい』と言いました」。

 石田氏は今風に言えばインスパイアされやすい人だったのかもしれない。そうした流れの中、石田氏がオコタンペ湖の展望台に行ったとしても不思議はなく、行くとしたらオコタンペ湖の存在を意識させられた1997年以降であろう。そう考えると特段、人を惹きつける観光地ではないオコタンペ湖展望台に行くのも頷ける。

 もしかすると、石田氏は一人で塩谷丸山に行って写真を撮影しているかもしれず、その時の写真に鈴木氏の姿を組み合わせることもできたはず。しかし、塩谷丸山に行ったと主張しているのは1994年夏、高校2年の時と裁判で明らかにしている点が問題になる。

 交際中に塩谷丸山の話を聞いて行こうと思って、頂上付近で写真撮影をしても1997年か1998年の大学2、3年の時の自分の姿を「高校2年の時」と言うのはさすがに無理がある。そのため、使えないという事情があったのかもしれない。

■1997、1998年撮影が有力

 以上の点から、写真①、②は1997年夏か1998年夏に撮影されたものであることは間違いないと思われる。

 そして、2人で行って2人で写ったのだとすれば、「行ってない」という鈴木氏も「1997年7月に交際が終わった」とする石田氏とともに虚偽を言っていることになるが、鈴木氏が虚偽を述べるメリットがないことは前述した。そうなると、石田氏が1人で行ったことになり、写真は鈴木氏の姿をはめ込んだ合成ということになる。

第16回へ続く)

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    "免職教師の叫び(15)劣化した看板が語る真実"に1件のコメントがあります

    1. 月の桂 より:

      謎の写真は、誰かの手による加工がなされたと考えるのが自然ではないでしょうか。
      写真を加工する必要があり、かつ、実際に加工出来得る環境下にある人間の仕業でしょう。石田氏は写真家だそうな。プロなのですから加工技術などもお詳しいのでしょうね。

      ただ、私が実行者の立場なら、怪しまれることの無いよう、鈴木氏(仮名)の影も上手く加工しますね。今の技術でなら、やれないことはないでしょう。こんな中途半端な合成写真をプロの石田氏はどう思われるのでしょう。
      是非とも、お聞きしてみたいです。

      この写真は、写真の構図としては有り得ないものです。石田氏から提供されたものだとしても、これを何の疑問も抱かず採用したフジテレビの見識を疑います。相手方の冤罪の可能性を考えることはなかったのでしょうか。冤罪被害者は、歪んだ正義感を持つ匿名からの攻撃と、まともな取材も行わずに報道する無責任なメディアによって作られるのではないでしょうか。我々は、報道被害の実態をもっともっと知るべきだと思います。

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